2012年4月27日金曜日
第二次大戦下の八代斌助 2
八代斌助師の思い出 富岡哲郎 元兵庫県警特高課員ーーーーーーーーーーーーーーーーー
八代斌助先生は宗教的信念の人であり、第一次世界大戦中日本の輿論が極端に偏向したとき、敢然とその信念を活用され、日本での基督教のピンチを救われ、終戦後も宗教界・教育界に御尽くしになられた方でした。
明治三十八年(1904)日露戦争の結果、日本は満州鉄道の権利をロシアから譲渡され、次第に渡満する人が増し、日本の勢力が浸透するに従い、現地の勢力者と日本軍の間に紛争が起き(1931)、日支事変(1937)にまで進展し、百万の陸軍が大陸に戦線を展開し、その結末をつけないでアメリカ合衆国と戦を始めた(1941)。軍部の独走が国民の生活を苦しめ、その大東亜戦争に敗れるに到ってかってない屈辱の時代を迎えた。 現在経済大国に復活したが、過去を振り返り、将来の進路を決め、正しく勇気ある前進を期待します。
次に私と関係の深い八代先生の思い出を記しご参考に供します。
大東亜戦争が始まると戦線は南半球にまで広がり、フィリピン、ボルネオ、ジャワ(インドネシア)、ニューギニア、インドシナ半島、タイ、ビルマまで広い地域で戦ったのでその補給路の維持、物資の欠乏対策に困るようになった。そのため経済統制が行われ、生活必需品が切符制で供給され、国力の結集が叫ばれ、挙国一致、一億一心の精神運動が盛んになり、独逸ヒットラー、伊太利ムッソリーニなどのファッショ体制の確立、ロシアの共産主義体制の強化にタイアップするように、日本でもファッショ化して行った。
昭和十七年になると思想信仰の統一が叫ばれ、法令による以外に強制事業が増えた。内務官僚は、宗教関係で「仏教は各分派を八宗に纏め、基督教も一本にしばりたい」とし、文部省による行政指導に加え特高警察の実力を利用しようとした。当時、私は兵庫県警察本部特高課に勤務し、出版物と宗教取締りの責任があったので、本庁の行き過ぎを心配した。 本来警察の任務は、過ちや行き過ぎを制し、民衆の治安、財産、生命を保護することを職責としているので、予防警察の範囲を超えて民衆を指導するのは誤りであります。 然るに宗教統制にあっては「中央で決めた計画により特高が指導者になり、各宗統合すべし」と言うのである。仏教関係では兵庫県に大本山がなかったので良かったが、聖公会では総括責任者の八代先生が神戸に住み、全国の教会や施設を指揮しておりましたので、本庁から私に「八代先生を説得し、基督教合同に踏み切らしめ、滅私奉公の実を挙げしめよ」との指令があった。
仏教各宗の実情は表面一つになっても伝統の主張は変えてないで、諸寺の内紛が看守されていたので、心からの団結でなければ互いに力を結集することが出来ない。例え数戸で飼っている鶏でも一箇所に集めると喧嘩するものができ、なかなか仲直りが出来ないと同様で、人間で在るだけで理論だけ、或いは強制では何ともならない。各自そのところ、その姿のままで充分協力できるのだから、そのままで国に尽くすべきであると考えていた私は、八代氏に会ってその考えを確かめてみたい、又国の方針である以上説得もせねばならないので、岩谷辰三部長(後警部退官)の案内で訪問した。
八代氏の住居は今のミカエル保育園のところにあり、玄関二畳の間の破れたソファに招じ入れられ二人の問答が始まったのです。
富岡「貴家は日本人か」――――――――――――――――――――――――――――――
八代「左様」―――――――――――――――――――――――――――――――――――
富岡「しからば今回の宗教合同につき賀川豊彦氏は同意したが、貴家は頑として教会合同に反対している由、孝を改め国策に添い、合同に踏み切る気はないか。――――――――――
八代「ない」―――――――――――――――――――――――――――――――――――
富岡「理由は」
八代「信仰は心の問題であって『正しい』と信じている道を曲げる訳には行かぬ。私は牧師であるが、陸軍予備少尉で召集があれば軍務に服す。最近は町内の防空演習にも参加しているが、宗教に対する政府のやり方は光輝ある日本の歴史に汚点を残すことになる。旧教、新教、其の他各派は夫々信ずるところに従い、信仰を固めている。急に一つの枠の中に入れても素直に溶け合うものでなく、内部的に違和を生じ、政府の考える総力結集は実現できない。私はあくまで反対です。―――――――――――――――――――――――――
富岡「昭和の天草四郎になるのか、投獄されてもか」
八代「然り」―――――――――――――――――――――――――――――――――――
私は感動した。
富岡「先日九州帝大某教授の論文中に『基督はユダヤの忠臣である』との文言があり私も左様思っていた。貴家は法律に違反した訳でなく、私は個人としてはその行動を是認する。日本が秦の始皇帝焚書の誤を繰り返し後世の物笑いになる歴史は作りたくない。」
八代「同感です。私は自分の宗教に殉ずる覚悟です」―――――――――――――――――
これで初対面は終わり、結果を本庁に報告すると共に微力な下級官吏であるわが国の進路を誤らせたくない、事態により争臣になると決心したのであります。 本庁から「八代は国賊である。逮捕せよ」と言ってきた。私は「兵庫県では彼を拘引する資料が皆無である。証拠を送られたい」と断った。その数年前私は本門法華宗の神宮不敬罪を摘発した。京都府警が大本教に手入れして以来の事件として重要視されたのであるが、いずれも法令違反の故であり、今回の事案とは性質を異にするが、本庁は私の動きが理解できなかった。私の存在が国策遂行上邪魔になったか南方派遣志願の薦めがあった。 約半年前、私は前課長高山一三氏(後広島市助役)に南方志願の可否を尋ねた処、
高山「私は前任地満州で三年過ごしたが、見ると聞くとでは大違い、内地では満州を王道楽士と思っているが、実情は軍が独走横暴で理想実現は程遠い。君が南方へ行っても、実効が上がるとは思われない。内地に居て今の職務と真剣に取り組むべきだ。」と諭され、心を翻し、仕事に打ち込んできたのではあるが、連休を利用して上京某公爵や某海軍少尉に面会、内外情勢と自分の進むべき道を相談した。両氏とも、「現在は国力の測るべきときである。重要な職責を棄て広い南方の僻地で何をやるのか」と言う。私は高山さんの言葉が身にしみてきた。 かって三度渡った二重橋の前に戻り、沈思黙考、思を決した。 帰途熱海で下車し、熱海ホテルに止宿されている高橋海軍大将のご都合を伺った処、明朝午前十時ごろなら面会できると言う。私は決心がついた事だし、同行の塩田富蔵氏のご好意を謝して帰県し、「世界および日本の情勢分析、特高人の在り方、私の職務、之に当たる決心」を書き綴り意見書を上司に提出した。ちょうど特高課長が欠員で翌日南方行きを勧める警務課長と会った。
「南方派遣は本人の志願を原則とするので、出向の命令は出さないし、職階は現職のままであるが、君の志願を強請する」と言うのである。私は断った。「然らば故郷へ帰って百姓でもするんだね」と言われ、「明日辞表を提出する」と約し、十一月二十六日辞表を提出したが、月が変わっても「止めろ」とは言わないので、平常どおり勤務していたが、あまり決定が長引くので督促したら大東亜戦争開始一年目の十二月八日付けで依願免官の指令が出たのです。私は後事を岩谷君に託して野に下った。
八代師はその後憲兵に召喚留置されたり、召集を受け朝鮮の部隊に入隊し、合同問題は終戦までお預けとなった。終戦後八代師は国際親善使節として欧米に使いされ、使命を果たされた。その後専ら宗団と教育の問題に取り組み全力を尽くされたのです。
日本に進駐した米軍は学校の教科書を集め、かつ焼かしめた。秦の始皇帝の二の舞であるが、日本人の思想を混乱せしめ、現在では米帝国主義粉砕を叫ぶ分子が増えた。藪をつついて蛇か。私は百年先、千年先の人々の批判が聞きたい。
松蔭は伝統的に良い家庭人を育て指導してこられた。八代先生の遺訓を体し、皆様が立派な方として社会に出られるよう期待しています。―――――――――――――――――――
「青谷」(松蔭女子学院同窓会誌) 昭和45年12月号________________________________
父は、父を取り調べた憲兵さんたちとは 戦後もずっと親交を保ちました。そのひとりは信仰に導かれましたが、それは父以上に母民代の影響によるものだとも言われています。母は取り調べに来る憲兵さんたちを常に丁重にもてなしたので 何も知らない子供たちは「おじちゃん、おじちゃん」となついたそうです。投獄されたときも子供たちには何も言わなかったと聞いています。 明治の女性の強さを感じます。
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