2012年4月5日木曜日

八代主教の思い出   渡辺忠雄

八代主教の思い出 渡辺忠雄 <はじめての出会い>  僕は中学時代に、一年間完全に休学せざるを得ない程のひどい腸チフスに罹ったことがある。非常に激しい高熱のため、昏睡状態を続け、一時的に頭が狂ったような恰好になった。 このため子供時代の記憶の一部が剥落し、記憶に断絶が出来たのではないかと思う。八代君との最初の出会いが頭にはっきり浮かんでこないのも、この辺に原因があるのかもしれない。  僕はこの腸チフスで、その後、身体の発育が止まってしまったが、当時は大男であった。後年の八代君は相撲の出羽の海部屋から誘いが来たほどの巨漢になったが、子供のころは、僕のほうが身体は大きく、腕力も強かったので、相撲か何かで彼を倒した時、ブリキ製の汽車の玩具で怪我をさせ、眉のあたりに一生涯消えない傷跡を残してしまった。 これが彼との交友の最初の記憶である。しかし、それが果たして小学校に入る前の出来事なのか、その後なのか、判然としない。 <先生のご両親> 先生のお父さんは、いつも「秋田魁新報」という新聞を読んでおられたのを妙に憶えているから、たぶん、秋田出身の牧師さんだったのではないかと思う。前任地は函館と聞いている。非常に厳粛なお顔をされていて、ちょっと近寄りがたい感じさえ受けた。その説教は、もちろん子供の僕には理解できなかったけれども、その言葉、態度には、子供心にも厳粛、尊厳というものが、強く感じられた。  僕は、自分の母からたびたび新島襄先生の話を聞かされていたので、この八代先生のお父さんから、新島襄先生の面影をよく連想したものである。  これに反して、八代先生のお母さんは、この世の中で一番心の温かい、そして信仰の篤い立派な婦人だと思っていたし、敬慕の念は未だ変わっていない。彼の家庭は物質的には倹しい生活だったと思うけれども、精神的には心の広い、豊かな生活を子供たちに与えていたと思う。その当時としては珍しい菓子を焼いたり、パンを作ったり、カレーライス――このカレーライスが上手だった――を腹いっぱい食べさせてもらったりした。僕の母親は、子供のしつけに非常に厳しかったので、外で悪戯をしたり怪我をしたりして自宅に帰りにくい時は、いつもこのご母堂から詫びを入れて貰った。僕にとって実にありがたい庇護者をつとめて頂いたものである。 明治の末葉、北海道には中学校が四つしかなかった。僕は函館中学校へ入るため、厚岸というところから、三百トンくらいの小さな汽船で、ペンキの悪臭と船酔いに悩まされながら 一日がかりで、入学試験のある釧路まで出て行かなければならなかった。そのころ、八代家は釧路に転勤されていたので、お宅に泊めていただいた。ところがその夜、猛烈な腹痛を起こし、翌日、病院に担ぎ込まれ、受験は断念せざるをえなくなった。この数日間の激痛はまことに言語を絶するものがあり、まさに七転八倒の苦しみで病室の壁を掻き毟るほどの大暴れをしたそうである。この間、彼のお母さんは不眠不休で母がわりの看護をし、お祈りをしてくださった。 母堂は、このように優しい反面、まことに鷹揚で胆力のある女性だった。彼も僕も、相当の腕白者であったので、いろいろと無茶な冒険をしたものだが、母堂は、いつも黙って見ており、子供たちの伸びやかな成長を楽しむといったところがあった。また借金取りが来ても、臆することもなく、ユーモアをもって応答されていた。子供ながらも、偉いお母さんだなと、感心させれらものである。八代先生の大人としての資質は、恐らく、このお母さんから受け継がれたものではないかと思う。 <晩年の先生> 彼とは、このように幼児から非常に親しく育ってきたので、彼が偉大な宗教家になられた後も、とかく洟垂れ小僧時代の思い出が先にたって、彼の偉大さを割引し勝ちであった。-それにしても、良寛を思わせるような邪心のない、天衣無縫、野人的宗教家としての彼、そしてまた 大胆無敵(不適にあらず) な教育家としての彼には、やはり頭が下がる思いがした。桃山学院大学の過激な教授、学生に対しても、決して彼らを憎んだり、極印を押してしまったりせず、むしろ常に彼らを哀れんで、彼らと話し合っておられたのは立派であった。そうした宗教家・教育家としての彼は実に正々堂々と、やっぱり尊敬すべき存在だった。 彼が宗教界、教育界、また、もろもろの社会的事業のために、心身をすり減らしておるのをみるにみかねて、僕はたびたび、仕事を縮小し、静養すべきことを勧告した。しかし彼は、僕の忠言を容れたようには思えなかった。 一九七〇年二月二十五日付の彼からの手紙には、こういった趣旨のことが書いてあった。 「いよいよ満七十歳になります。「われらが年を過る日は七十歳に過ぎず」と詩篇第十九扁にあります。日本もユダヤも、七十年は、人の世に生きる限界のように語られています。厳かに古希を迎えます。古語にいう、「命長ければ恥じ多し」も、反省の心を与えてくれます。戦前は、「美しく死ぬことのみを教えられた」お互いが、いまは、「美しく老いることの難しさ」を、託つものです。堀口大学の詩った(うたった)「今日一日生きていることを感謝せよ」を心に留めています。貴方も、皆様も、祝福に満たされますよう祈ります」 一九七〇年九月八日付の彼の手紙。 「上枝頭取令夫人の葬儀の際、お目にかかりましたが、あまり厳粛なお顔をしておられたので、奥様にだけ会釈して帰りました。  軽井沢で女子青年の大会があり、それに出ていました。東京まで自動車で八時間半かかり、帰って葬儀に参列したのですが、貴方も二三時間立ち詰めでは大変だったなと思いました。それから、北海道の伝道旅行でした。各地とも、教育委員会の共催で、感激しましたが、無理がたたってしまいました。・・・・  来年一月元日、聖公会総裁を退任しますが、そのため、各地方で、この際とばかり酷使されております。それに、既に、万国博の日本キリスト教館委員会の会長にさせられてしまったが、これも命がけの仕事でした。自分のあとのことには、いろいろ悩みがありますが、今は何も言わず、考えず、この病院で人に隠れて静養いたします。決してご心配なく、ただ仕事を止めて寝ているわけですから。  どうかあなたもお元気でいられますように。」 彼の手紙にもあるように、上枝頭取夫人の葬儀にはわざわざ軽井沢から駆けつけてくれた。彼は、その時の僕の顔が厳粛だったと書いているが、僕は、逆にその時の先生の顔があまりにも憔悴しており、その歩く姿が、この世の人とも思われない様子であったので、「絶対に休養を取らなければいけない、事業を縮小して健康に留意せよ」という手紙を出した。しかし、彼の手紙と行き違いになり、彼は既に腹水を押して北海道へ伝道旅行へ出かけてしまった後だった。 七十年九月十四日の朝、富美子夫人から電話があった。「主治医から、主人は癌の宣告を受けました。予てから主人の申しつけがあって、もし癌の宣告があったら渡辺さんに伝えるように、とのことでしたのでお電話申し上げる次第です。」とのことであった。そこで僕は、「先生はどんな顔をされましたか」とお尋ねじたところ、「意外にも、却って落ち着いた態度で、むしろ、ほっとしたようにさえ、見受けられました」というご返事。 早速お見舞いに行こうと思っている矢先、山田修君(松竹専務)がやってきた。八代先生を見舞ってきた感想としては、「会長が見舞いに行くと涙と涙が衝突するから行かないほうが良い」というものであった。しかしそんなに気力が弱っているなら会うのは辛いが、やはり元気付けに行かねばと思い、九月二十五日、早起きして、神戸の健保中央病院へ出向いた。久しぶり見る彼の姿が余にも痩せ衰えていたので、一瞬驚きギョッとした。しかし、その顔には、赤味が差しており、ぼうぼうと伸びた髭面は、ルオーの絵でみるイエス・キリストそっくりで、生きたキリストに会えたような感じがした。神々しささえ感じられた。お祈りをしたり、慰めの言葉を言ってくださるのを聞いているのが辛い。」それで僕は言った。「生きるも死ぬるも神様の恩召しさ。君のように人々から敬愛せられ、尊敬を受け、そして他人に信仰を授ける人の晩年の言動は大切だよ。」そんなことを話して帰り際、彼は僕の手を握ったまま、お祈りをしてくれた。「われわれ二人は、それぞれ両親を通じて、幼児、友人となり今日に至ったが、どうかこの友とその家族たちのために、神の御恵みを与えたまえ」と。  その日の僕のメモの最後には、こんなことが書いてある。 「この日、忙しさに取り紛れ、夕刻までそれ程悲しい思いをせずにいたが、銀行から帰宅の社中でふと「刈干切唄」を口ずさんでいたら、なんとなく涙が流れてきた。淋しい夜だ。」 <三行の手紙> 一九七〇年十月一日付で彼から、次のような手紙を貰った。原文のまま掲載させてもらう。 「オレは一生涯  こっけいな奴だった  そう思うでしょう        ひんすけ  ただおさま 」 かな文字が多く、かろうじて読める程度の筆力であった。僕はすぐに返事を出した。 「三行の尊翰、有難く拝誦。「俺の生涯はこっけいだと思うだろう」というのは、竹馬の友に気楽に書いた手紙だとも思うが、世間の人は、悟りきった宗教家の含蓄のある言葉と思うかもしれません。 昔の人には、敬意を払うべき人が多々あるが、僕は同時代の人で、マスコミに乗った所謂お偉方の人々には、尊敬すべき人が少なく、軽蔑さえしています。権力と財力の結合するところ、必ず腐敗が起こり、社会変革の危険を孕んでいます。こういう人々の生涯は、ドンキホーテというべきでしょうね。 貴兄は、自ら求むる所少なく、世のため、人のため、心身をすりお減らして尽くされたので、人々から愛され、敬されたのですが、その生涯を通じての働きの空しさを、今、急に感じられたのであろうか。 それとも、形の問題として貴兄の言動を指して、滑稽といってるのであろうか。確かに、貴兄の言動には、牧師先生らしからぬ場合があり、僕は、ひやひやしたことが度々であった。しかし、これは君の飾り気や気取りや、邪心のなさが、君の美点であり、人間的魅力でこそあれ侮辱的、滑稽などとは、誰も考えなかったと思います。君のユーモアは誰からも好かれたのです。神様からご覧になれば、人間の一生は、いかめしいことを言っていても、滑稽なものかもしれませんね。神様もユーモアがおありでしょうから笑ってご覧になっているのでしょう。僕は数年前から君の身体の疲労が酷いといって、しきりに休養を勧めてきた。今度は神様の思し召しどおり、徹底的に休養したまえ。しかし永遠の休養は困る。     僕は九十まで生きるつもりだ。君もそうしてくれ給え。神様に毎朝、毎晩お祈りしています。                                      忠雄 十月三日 斌助兄 僕はこんな理屈っぽい手紙を書いたが、そのころ、彼の魂は、既に天と地の間を往来していて、この手紙を読めなかったのではなかろうか。 一九七〇年十月十日、彼はついにこの世を去った。 十三日の葬送式に僕は追悼の辞を述べるように求められたが、自分にはとても耐えられないので、辞退した。 しかし、十二月五日、立教学院での記念追悼式には、彼の思い出を語った。そこでの僕は、彼の三行の手紙について語り、宗教家として彼が成し遂げた仕事の空しさ、人々の魂を救い得なかったことの心残りを、この手紙は語っているのではなかろうか、という趣旨の話をした次第である。だが、この三行の手紙が究極の所、何を意味するのか、僕は完全明快に解釈しきれたというだけの自信はいまだにもてないでいる。 <むすび>  ふり返ってみれば、彼と僕との交友は、お互いの両親が信仰を通じて親類のようなお付き合いをしていた幼児に始まった。文字通りの竹馬の友である。交渉が繁かったのも、幼年期と、戦後、そして幽明界を異にしてからは、彼の著書、書き物などを、折に触れて引き出しては読み、自由に彼の霊と交わっているが、以前にもまして、尊敬の念と親愛の情を覚える。今後とも彼との霊的交友を深めて行きたいと思う。 (三和銀行取締役会長)------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------ 記  渡辺忠雄氏のこの回想記は何度読んでも眼に涙がにじみます。しかし今回、再び読み返して、多くの人に力と慰めを与えてきた父が、渡辺忠雄氏には強く支えられていたことに気づき、父の盟友としての氏にいまさらながら感謝の念を表したい気持ちです。105歳まで長寿を全うされ逝去された渡辺氏と父は天国にて再会し、旧交を温めていることでしょう。 

1 件のコメント:

  1. 八代和子様、小生の長年の友人、奈田直宏氏より、八代武さんの訃報を知りました。水産関係ののことで何度かお会いしたり、電話したことがあります。
    また松下正寿先生のカバン持ちをしていたので、聖公会やご尊父様のことを
    よく耳にしました。上記の記事を見て小生も涙しました。
    小生の父は41歳で突然の交通事故で他界しましたが、母や残された子供たちにとって、父の親友の皆様の追悼文は生きる力を与えてくれました。
    小生、伊豆にいますが家内も子供たちも東京にいますので月1~2回帰っています。
    もし和子さまがご元気でいらっしゃるなら、ご尊父様、松下先生のこと、武さんのことなどお話しをお伺いできる機会があれば、光栄です。この20日も慰霊の為、上京します。6月は15日ごろです。 大脇準一郎 拝


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