2012年4月21日土曜日
第二次大戦下の八代斌助 1
第一線部隊の八代先生 後藤宗令 --------------------------
自分は日支事変当時から現役で軍務に奉公してきたが、昭和二十年四月十五日、護朝三部隊に編入されたものだ。その隊の第一中隊の第一小隊長に不思議なロートルの少尉がいた。いつもニコニコと笑っていた。
いまのプール女学院の向かいの小学校校庭に集合させられたのだが、そのときのことである。連隊長はこの間、予備役に編入されやれやれとばかり若い婦人を後添えに貰って余生楽しもうとしていた矢先の召集だけに頭に来ていた。馬上豊かにと言うところだが、やせた中佐で、「お前たちの命を貰った。将校の服装調査をする」とつかつかと将校たちのところに進み、一人ひとりの前にやってきて、「こら、背嚢をどうした。」こら、水筒は」「こら、双眼鏡は」と怒鳴っている。われわれ下士官級は「おっさん、ええぞ、生意気な将校たちをやっつける連隊長は偉い」と思うていたものだ。
ところが、背嚢もメガネも、'何もない老少尉ひとり悠然として老連隊長を見つめている。
「あのオッサン、なぐられるのかなあ」と思っていたら、連隊長何も言わずさっさと引き上げていく。「分からないな。裸みたいな格好で、何も持たず、それでいてたたかれもせず」と思ったことである。
そのうちに編成が終わって、みんな小学校でねることになる。その老少尉は由良という軍曹に
「オイ、オレは何にも知らないから、よろしく」と二階に上がって、ごろりと寝てしまった。
大隊長は。また日支事変に召集され、もう戦争もあきあきで召集解除になってようやくすばらしい奥様の養子様になられたばかりだ。このお方もがたがた二階に上っていく。やがて、「コラ、誰だ」「ウン」と言うやり取りが聞こえる。なんと二階の暗いところで、大隊長つまづいたらしい。そこに第一小隊長がねていたのだ。そして、「貴様何商売だ」「あぁ、ヤソの坊主だよ」
「ヘイ、戦争勝つか負けるか」
「負けるに決まってる」「お互い仲良くしてやろうな」と話し合っている。この小隊長と大隊長の話し合いで、みんな宿直をきめて、夜は家庭に帰ることになった。
自分は第一夜の宿直にあたった気の小さい某銀行の男のもとに配属させられたが、この第一小隊長が、今自分の仕えている八代先生なのである。先生は毎晩家に帰って、防空壕を掘って、教会のものや本などを入れておられた。それから朝鮮に行くことになるのだが、背嚢も、めがねも、みんな子どもさんにあげて、四月二十一日大阪から立たれたのであった。奥様が兵庫県特高の岩谷さんに伴われて、神戸駅でお会いになろうと言うのに、先生はもうぐっすりねておられた。
下関では兵隊が満員の盛況で、朝鮮行きの船を待っている。「ちょいと行ってくるぜ」とぶらりと出掛けた先が、今も先生のもとの家におられる中村夫人の教会であった。またポカンと帰ってこられると、サイベリア丸の馬のならんでいる船倉の前で、わらに腰掛けて、本を読んでおられた。いまから思えばイエス様のベツレヘムの馬小屋でも思い出しておられたことと思う。
京城の竜山とか言うところにいた何日かは、いつも教会に出て行かれる。
いよいよ命令布達式とかいって厳かな式典があって、先生は連帯旗手のすぐうしろで、第一小隊長として立っておられた。軍刀を抜くところに来たら、うまくいかない。ようやく抜いたら、連帯旗手殿のくびの後ろを切って終った。すんでから、「えらいこっちゃ、でもあのオッサン、血が出てもちゃんとしていたなあ」とうそぶいているのだから、こっちがびっくりしてしまう。
いよいよ出発,世邑から上って茂長に出て、松山里の陣地に着く。先生は挺身奇襲隊長だ。すべてに似てもにつかぬ毎日で、朝鮮部隊を訪問し、
世邑にいられた牧師さん(黒瀬主教の姉婿さん)のところに紅茶を飲みにみなをつれて行ったり、出張しては京城の工藤主教に会いに行き、水原のシスター様たちを慰問し、京城の日基教団村岸牧師、カトリックの岡本司教と懇談するなど、忙しいしかも悠然とした毎日をマイペースにのせて動いておられたのには驚くばかりであった。
レクレーションの好きな人で一週間一度の夜のつどいは楽しいものであった。
おまけに歩兵操典も、陣中要務令も持っていないし、図嚢のなかには、英語の本が二冊。後で聞けば聖書と祈祷書だったという。毎朝隊長がいなくなる。うしろの小高い丘にのぼって。ムニャムニャやってる。部下もみな自分の宗教をまねてやってる。しらみがついて貧血で倒れた兵隊を慰めたりするのは実に堂に入ったものだった。三観兵舎の中で、夜になって皿に油を入れ、灯心を挿入し、其れで何か英語の文章をかいていたものである。
東条閣下の戦陣訓もよませず、勅諭も暗記していなかったようである。ただ朝礼だけはうまいものであった。
「皇居に向かって、天皇陛下に敬礼、故郷に向かって、父上、母上にご挨拶」とやって、「海行かば、水づく屍・・・・」をすばらしい美声でやりだすと、みんなしんみりとその時間だけはすばらしいものだった。
一番困ったのは、護朝三部隊の陣地に、米軍が上陸して来るから、英語学校を開校するというときのこと。ところが、兵団長がしょうのない仁で半キチガイといわれたひとであった。外国に一度行った将校や英語のできるものは志願せねばならぬのだ。部隊からは大丸の宣伝部長、甲南汽船の御方などが出た。もちろん先生は外国の博士であるし、京城までは行ったが、しばらくしたら他の人は残って、先生だけが帰ってこられた。「万葉集のように上等なクラシックな英語がヤンキーさんに分かりませんよ」と、さっさとお帰りになった。後で聞けば、大丸のお方は兵団長の部屋で、朝から晩まで不動の姿勢で暮らして、挙句は肺炎で死ぬと言う悲劇も起こったものだった。
そうこうしているうちに、昭和二十年六月のある日、先生は参謀本部にB29の捕虜の調査官を命じられて、我ら部下を残して日本に帰られることになり、みな泣きましたよ。外国人を妾にしているスパイだなどといわれた先生が、いまや祖国日本のために立ち上がるのである。後で聞けば、アメリカの捕虜たちも先生に対しては何でも告白したそうで、もう一切が終わったことを知った先生は、偉い上官が逃げた後、兵庫県の英語の教官を引率して、無事に神戸に帰られたものであった。なにかといえば、度胸のある親分であった。先生さえ側にいたら、みんなが生死を忘れて、人生の一こまをいつも楽しみ得たものであった.
びっくりしたのは、戦いがすんで、自分たちが遅れて帰還したとき、先生はあっちこっちで勤労奉仕をしておられるではないか。第一線ではなに一つ持ったことのない先生は、土建業者もびっくりして、「和製のゴリラ」とあだ名を呈上するほどのお方であったのだ。
西郷、乃木、ああした偉人の側にいたのかなあと思われることが、私ども部下の楽しい思い出である。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
記
戦時下の日本で、日本国民とキリスト者とをどう両立させるかは大きな苦しみと選択であったと思う。 自分ひとりではない。父には守るべき信者、家族、地域の人々、本国に帰れなかった異国人たちがいた。
父は自身の信ずるところにしたがって国家に抗ずるところは貫き、一方従うべきは涙を呑んで従った。その一つが集団疎開であった。小学校の生徒が集団疎開に送られることが決まったとき、有力者の子女は私的な疎開をした。父は地域の人々と同じく当時、小学校の三男浩、四男胖、三女公子を疎開に送った。戦争が終わり迎えに行ったとき、一人違う疎開地に送られていた公子は痩せてミイラのようになっていた。父は始終食料を調達して疎開地に送っていたのである。その食料は一体誰が食したのか。。
「ああ、自分に信仰がなければ この責任者たちを殺していただろう」その著書の中にこう記されている
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