2012年4月9日月曜日
八代先生の印象 吉野丈夫 日本基督教団牧師
八代先生は磊落で、太っ腹で、それでいて、とてもこまかい処に気のつく、あたたかい人だった。 私はある時、徳島のインマニュエル教会で、伝道集会を、先生と一緒に受け持ったことがある。
八代先生は、このとき、私より少し送れてお着きになった。入り口に、お立ちになった先生は、牧師さんの二人の小さいお子さんの頭をなでて、「ああ、おじさんは一寸忘れ物をしたよ」といって、急に外へ飛び出した。
暫くすると、先生は、両手に菓子袋を一杯持って帰ってこられた。「坊や、坊や、お土産だ」と、お子さんに渡された。 あのときの先生の優しい顔を、私は忘れることが出来ない。その晩、一緒の部屋に寝て、安易に聞けない牧会上の苦心について、いろいろ面白く教えられたことを、印象強く憶えている。‘
八代先生は人一倍頑健で、大きな体格をしておられたので、ある時、こんなことを仰った。「吉野さん、もし進駐軍の黒ん坊に襲われたら、逃げないで、大きな声で「アイム、ビッショップオブ、ジャパン」というんだね。大抵は尾をまいて逃げて行きよる。これはおまじないだよ。堂々と大声でね・・・」
併し、先生のような、大型な体格をもって居ればともかく、僕には通用しそうな、まじないでなかった。
昭和十九年、戦争急迫を告ぐる頃だったと思う。生田区の山手に住む、地域責任者が集まって、防衛問題などで協議会が開かれた。場所は四の宮神社社務所、集まるものだいたい二十名くらい、座長は八代先生、それは、あつい夏の晩、会議半ばになって、先生は、「こんばんはとても暑くてやりきれん、諸君、はだかになって、話そう」と、いいだして、忽ち、先生は、まっぱだかで、パンツ一つになって、話し出したのには、私も肝をつぶした。「これは凄い牧師さんだ」と、びっくりした。
その席で、市会議員の藤井太郎君が「近く、牧師さんたちにも、伊勢の五十川へ行って、”みそぎ"をして貰うことになっています」との発言があった。
八代先生は、このとき「みそぎ」!とんでもない、神戸の牧師さんたちは毎日教会で、みそぎ以上の厳行をして、日本国のために祈っている。この忙しいのに伊勢へ行く。藤井君、それは、直に中止するよう、君から交渉して貰いたい。もし君が駄目なら僕は、いつでも出て行くよ」この一言で、牧師さんの伊勢参りは中止になってしまった。
終戦直後のことであった。八代先生からのご招待で「銀めしの昼食」に市内の牧師さんたちがよばれた。行ってみると、長年口に入らなかった銀飯のライスカレー。肉もたっぷり。牧師さんたちは、舌鼓を打って、この思いがけないご馳走にあずかった。
ところが、翌日の新聞を見ると、「八代牧師、ヤミ米、ヤミ肉で、牧師たちを接待する。」との見出しで、昨日のライスカレーのことがすっぱ抜かれている。
私はすぐその新聞を持って、八代先生を訪問した。「先生偉いことですね。」先生笑いながら曰く、「吉野さん、牧師さんをご馳走するって、神様に、一番喜ばれることをやっただけさ、警察が来ようが、誰が来ようが、俺はびくともせんよ。」
私の目にうつった八代先生は、牧師らしくない、本当の牧師さんだった。先生はこの調子で、世界を、日本を闊歩し、ほんとに日本人らしい、日本くさい伝道に終始された、神戸の産んだ、最大の牧師さんだった。この先生が召され、神戸が急に淋しくなったと思う。
日本基督教団神戸再度筋教会牧師-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
父は手をこまねいて飢えを凌ぐ人ではありませんでした。常に創意工夫して食料を確保しました。戦時中、三田の山から牛一頭をリヤカーに乗せ持ち帰り、自分で捌いて食料にしたという逸話も有名です。
ある時、ヤミ市に関与したとかの罪で危うく検挙されようとしたとき、英国宣教師ミス・リーが急遽米国製公会ミッションに伝え、占領軍司令部を通して検挙は取り下げられたとか。。父の危険を冒した行為は、私腹を肥やすためではなく、多くの人を養うためでした。また、そのようなときには聖公会のみならず日本基督教団その他の牧師様たちも招いたそうです。
戦時中、軍の圧力で教会統合が進められたとき、頑としてそれに抵抗した父は、戦後一貫して教会再一致に尽くしました。大阪万国博覧会の宗派を超えたキリスト教館の館長としての仕事が最後の公務となった事は象徴的です。 戦時中にも又、このときにも内部からの激しい反対にあったようです。父にとって聖公会内部からの離反が一番悲しいことだったのではないかと思いを深めています。
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