2012年4月7日土曜日

差別の国     生嶋乗薫

差別ということが、今なおこの私達の祖国日本の中で、平然に、冷酷に厚かましくも行われていることへの傷みと憎しみに胸うずかせている人たちには、ぼくの、理屈抜きの八代さんへの恩義を分かってもらえると思う。八代さんはよく、松蔭の教師という仕事を、お前たちが選びとったのだ、と偉そうな言い方をしていたが、それさえも、僕は素直に思える心情であった。 職員会議でいったことだが、ぼくは大学卒業時、就職にあたって決定的な差別をこの社会から受けた。尼崎市の教育委員会は試験に合格したぼくを不採用にした。(まるで七十人のうち二人だけ面接に残してその一方を採ったような偽装をこらし、そのことを後になってまるで刑を言い渡すように父にあかし、父を神経症に陥れた)その後、他府県の私立高校への就職の話をやっとみつけ出し手続きをとっている最中、母校の教頭が問い合せの返電で”ミアワセ“と打った。 ぼくは 大日電線の臨時工になり、めっきの仕事を憶え、本工になれるだろうかと思い始めていた時、松蔭から採用の話があった。十六年前の手続きは簡単なもので、遠足の帰りでレストランに来てくれというので行くと、二階から朝子先生代理の教師が降りてきて、給料は一万二千円でよろしいか、という。ぼくは、くもの糸に手をかけて穴の出口一メートル下までたどりついた感じだ。家は仏教の寺ですがよろしいか、と聞いた。よろしいということで翌日から教えることになった。 実はその日か、その前後に、当時病床にあった浅野校長を囲んでぼくの採用取りやめの話し合いをしたという。僕を共産主義の故に”ミアワセ“というのだ。八代さんの大きな決断がなかったら。僕の人生の門出は又閉ざされていたはずだった、とその後聞かされた。この話を教えてくれた人が誰だったか忘れた。ひょっとすると八代さん自身だったような気もする。作り話かどうか真偽を確かめる余裕もなかったほどのショックのままで、今もって信じ込んでいる。(誰か真偽を知っている人は教えてほしい) この一生背負い続けた恩義と、それから僕の父の葬式で両手を合わせて拝んでくれた恩義とを、僕がどれだけ感じているかを八代さんが生きてる中に言葉として伝えたかったが、かれは理事長、自分は組合の役員ということを考え、私的な交わりを絶ち続けてきたのでついに機会を失った。お葬式の日、親しい友人にこの残念さを話すと、それはおやじさんにいわんでいいことだ。ほかの人につたえたらいいのだ、と教えられ、この機会をお借りすることにした。 八代さんは天皇を敬愛したりして、この差別社会を変革するために戦おうとされなかった。そのことで批判する人も多かろう。僕の心情はそこで僕の理屈を溶解してしまう。 松蔭女子学院高等学校教諭 (「青谷」昭和四十五年十二号)--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 記  生嶋先生は松蔭に通った私達姉妹の四人が学園をともにした。  私自身は教えていただいたことがなかったように思うが お友達を通してご縁があったように思う。 一度中国の学生とペンフレンドになることを勧められ お友達と一緒に中華人民共和国神戸支部(名前は定かでない)に案内された。家に帰ってその話をすると 兄や姉に「中共の子供と文通するなんてあんた馬鹿じゃないの?」と散々しかられた。私は末っ子の洟垂れで、強い意志でやろうとしたことではないので、翌日先生に「家で反対されました」と断りにいった。先生は「やっぱりそうか。そういう国やからあかん」など憤慨されていたが、父に反対されたわけではなかった。父はそんなことに反対する人ではなかった。いやむしろ学究的で反骨精神の旺盛な若者を愛したから、共産主義の先生方を多く採用したのだろう。今の時代に想像も出来ないほど東西の壁は厚く、社会主義国の崩壊など想像も出来ない時代であった。

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