2012年4月15日日曜日

若き日の八代主教   桑原勝太郎

<人に惚れられよ> 八代主教の青年時代は、須磨聖ヨハネ教会の八代長老(今は司祭)であった。清貧にして、子供さんは多く、その生活は大変なものであった。だが不思議と朗らかで、それに加えて魅力的な先生であった。接した者、ことごとく何物かにとり憑かれたと言いたい程、八百屋、魚屋、郵便や、牛乳屋、みんな好感を持たざるを得ないような人柄が滲み出ていた。まして信者に於いておやである。先生、悟って曰く、 「牧会の秘訣は男にも女にも惚れられることである。女に惚れられるのは至難の業ではないが、男に惚れられる男になれ。」 当時教会は青年男女が多く活気に溢れていた。恋愛を良くまとめていたが、決して甘やかしておかなかった。 「好きだの、寂しいだの、くだらないことを云うな。勉強しなさい。読書してその内容を批判する手紙を交換し、お互いの頭を啓発しなさい。 <牧師の行く先は聞くな> 青年牧師八代先生は勉強の鬼であった。貧しいのによく本を買い、夏などパンツ一枚、書斎とは名ばかり、三畳の部屋で神学の勉強をしていた。泣く、わめく、騒げばあやしながらである。 此の頃最初の出版著書「主イエス」の原案が完成した様だ。よく訪問もした。疲れると夜など広瀬ナオミ婦人伝道師を牧会の打ち合わせもあり訪問された。此のときは必ず随行を命ぜられたが、帰途いつも広瀬さんのコーヒーは天下一品と称していたが、その表情より察せられたのは、打ち合わせは第二でコーヒーに引力があったことは間違いない。 旅人をねんごろにもてなせ、でよく招いた。民代夫人に無断であり、俸給を貰う前である。人が玄関から入ると奥さんが裏から風呂敷包みを持って出た。 小さな教会でもあるが晩祷は寂しかった。広瀬先生の他は自分ひとりの時もあり、八代先生の大活躍にも拘らず、笛吹けど踊らずである。信者ひとりであっても説教団より完全に準備した内容と熱弁が飛び、大会衆を前にしたと同様の語気であり敬服したが、また気の毒にも思えた。訪問しても集うものなし、先生は何処を訪問するのか聞いた。 「牧師の訪問先は聞くべきでない。云うべきでない。思わぬ弊害の生まれることあり。」 そして今は信者は集まらないが、と眼を輝かし 「俺の聖職在任中の最大の目的は、皇太子殿下に洗礼を施すことだ」 <人をよく赦した。> 先生はよく礼拝堂の掃除をした。腰掛を移動し、掃き、雑巾がけした。よく手伝わされた。或る時、礼拝堂の窓枠の上に火のついたまま置き忘れ自然に消えた煙草の吸殻を「オイコレ」と言われ、鼻先に出されてギョッとした。無人の礼拝堂、若し消えない中にカーテンにでもふれたら、一夜にして聖ヨハネ教会は灰燼に帰していたかも知れぬ。流石におとなしい先生も、今日は黙っていまいと覚悟していたが、何事もなかったような顔をしている。人を赦すことの何んと偉大なる牧師よ。此の牧師は大物になるぞ。、此の人のためなら何でもしてやると心のうちに誓った。 そうは思ったものの、数日後に今度の晩祷に説教を一度してみなさいと言われた時には参った。躊躇逡巡していたら 「選ばれた時に、自分はそれができる人間でないと拒むのは神への傲慢である。できないながらも努力してやりますと受けるのが神への謙譲である」 寒くなってからの掃除のとき、今度のクリスマス礼拝は深夜にやる。聖餐式もする。君も来なさい。 遂にその夜は来た。珍しくて胸の躍る思い。午前零時。須磨の教会稲葉町あたり人は寝静まり声なくて、風の音のみ、集る者、民代夫人、広瀬婦人伝道師、そして自分、いとも静寂と荘厳のうちに終わった。 以来ミカエル大聖堂現在の深夜礼拝に’至るまで連綿として四十三年続き、八百余名の集会の誕生となった。八代先生の創ったもの、実に奇しきかなである。「おそるな小さき群れよ、両三人集まるところ我も在るなり」先生は此の言葉を信念としていた。それが実現されたのである。 <神戸の大洪水> 八代先生、遂に招かれて神戸の中央、聖ミカエル教会の牧師となった。淋しい町から目抜き通りへ出た感があった。信者に余裕のある方あってか、お布施が多くあったか、ヨハネ教会時代余見受けなかったが、酒に縁ができ、花隈のクラブに飲みに行くのにお供したことがあった。先生は強い。その帰り昇り坂を上機嫌で千鳥足のとき、運悪く?バシル監督(主教)に見つかり、いとも静かに八代さん貴方はお酒を飲みすぎてはいけませんよと忠告を受けたと、テレ臭そうに話したこともあった。 しかし勉強の鬼はさらに大鬼になって行った。ソファーにもたれ、両袖に板を渡して仮の机となし、夜の耽るのを知らなかった。 日支事変が始まって間もない頃、神戸に大水害が訪れた。山は崩れ、川は氾濫し、交通は国鉄を初め、全部途絶、元町通りも泥で埋まり、大丸、三越あたりの角地につぶれた家が、寄木細工のように積った。溺死者は筵をかぶったまま路傍に放置されているのを見た。わずか二、三時間の大洪水である。 此の時、八代斌助牧師は獅子の如く敢然として立った。人の本性は非常事態の時に瞥見されるものである。神よ、信徒の上に平安あらんことを、と祈っていては遅い、今、何が必要か知っているか、塩だと答えたら、異う水だ、飲み水だ。言い終らぬうちに台所に飛び込み一升瓶に水を五、六本つめた。半パンツに長靴、居合わせた若者を従え牧師館を飛び出した。東灘から西は須磨まで点在する信徒の身を案じて歩いていく。 騒然と云うか、凄い勢いと言うか、即決して飛び出す姿は実にたのもしい牧師であるかなである。土方の二人や三人、蹴飛ばす牧師でなければ、、普通の牧師にできる業ではない、と思った。 <四十歳の主教誕生> 数年後、八代牧師は抜擢されて、神戸教区主教となった。青天の霹靂。わが耳を疑った。第一、年が若い。四十歳、昭和十五年、日本聖公会記録的な若さである。 神学校では優等生と自ら言っていた。また同級生と激論し寮の窓から抛り投げ、そのため退校?されたとも言っていた。その後上海に行き、魚屋の御用聞き、株屋の外交員をやり、長男なるがゆえに働いて大いに国元に送金したとも言われた。ケラムに行けば暴れん坊主で神父様も顔をしかめ,凡そエリートなタイプとは縁遠い野生的な牧師である。 それならどうして主教に。若いときから案外側にいて見聞したことから自分なりに考えると、人間的魅力に溢れていた。 決して自分を高くしなかった。 勉強の鬼であった。 八代主教の誕生は、みんなが押し上げたのである。主教の言葉の二つが今でも耳に残る。 「教会をわが家と思え」 「常に夢を持て、祈れ、必ず、報ゆられる」 建材店主------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------ 記 須磨の聖ヨハネ教会の信徒の方は父と一緒にミカエル教会に移籍されました。 牧師館である私の家はいつも来客が多く、人でいっぱいでした。父は、桑原さんのような、父を大切に思う一人ひとりの信徒の方々に支えられていたんだなと感謝の気持ちでいっぱいです

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