私が松蔭の専任として八代先生のもとで働いていたのはそんなに長い間ではない。昭和三十一年の秋から三十四年の秋までわずか三年間、しかしその思いではあまりにも多く、その一コマを取り出して限られた紙面に記すことはとても出来ない。だから、私は、あの昭和四十五年十月十日からの数日、私にとって、これ以上ない悲しみの日々を書こうと思う。
その日、私は教え子の結婚式二つに出席せねばならなかった。一つは午前一時から、一つは午後六時から、しかも、両方とも大阪市内の会場であったので、その間、勤務先の大阪女子大学の研究室で時間をついやすべく学術雑誌などを見ていた。突然、妻から電話があり、知らされたのである。何度か病院にお見舞いに上がり、こうなることを予測しなかったわけでもないが、ただ呆然、何とか、もう一つの結婚式をすませて家に帰った。
家に帰ると一人書斎にこもってジョニー・ウォーカーを飲んだ。ジョニー・ウォーカーは思い出の酒である。私は八代先生によってウィスキーの味を知ったのだが、それはいつもジョニー・ウォーカーであった。ジョニー・ウォカーをひとりで飲みつつ私は泣いた。そして、とうとう朝まで泣き明かした。
翌日は週一度松蔭に出講する日であった。その年は、午前は短大、午後は垂水の大学というスケジュールであった。教室へ行ったが、『源氏物語』の話をする気にはなれず、『八代先生と私』というような話を一時間ほど、泣きながらしゃべった。二百人ほどの受講者は、ほとんど八代先生を直接知らなかったが、大の男が泣きながら話す異様さに驚きながら、終わりの頃にはみんな一緒に泣いてくれた。続いて追悼の特別礼拝。そこでも私はまた泣きじゃくっていた。午後は垂水へ行き特別礼拝でも泣き、講義でも小野小町の話はまったくせずにまた泣いた。夜はミカエル大聖堂でまたまた泣いた。良くこれだけ涙が出るものだと我ながら思ったが、八代先生が生前に、私、あるいは私どものために流してくださった涙に比べれば、何ほどのこともないと思う。
十月十日
―胸は焼けはらわた燃ゆるこの思ひ 血の涙にても消えずぞありける
十月十三日
―くちぐせのごとく遺言(みこと)をつぶやきぬ 愛し愛され許し許され
その頃よんだ歌である。私は学生時代まで短歌を作っていたが、その方面の専門研究者になって実作から遠ざかっていた。併し、その数日、作ろうという気持ちもないままに、こんな歌をよんでいたのである。
今となっては、すべてが悔いである。 なんとなくこだわりがあって信者になりきれずに、神前結婚の媒酌に先生ご夫妻を引っ張り出してしまったことをはじめとして、松蔭、特に先生のもとを自ら去ってしまったことを含めて、悔いばかりである。その悔いは涙となって今も流れ続ける。あんなに可愛がられていたのに、どうしてお前は!と。酒席において先生に話題が及んだとき、眠れない夜ジョニーウォーカーを飲むとき、そしてこの原稿を書いている今も、悔いの涙は流れ続けるのである。
―五年(いつとせ)は早過ぎ行けど愛を説く君が面影ただ涙あり
―ひたすらに君を夢見ることありて寝覚めの涙濡れてありけり
ー八千度(はちたび)も悔いに悔ゆれど何かせむジョニーウォーカーただ苦き味
父は経済界、教育界など教会関係から離れた多くの人と親交がありました。それは十字架を教会に置いて世俗社会に入るというのではなく、神とともに生きる父がそのままで世俗社会に溶け込んでいくという感じでした。 言葉の端々は主を語っていても受洗を促すようなことはありませんでした。 片桐先生は、それが、その言葉を決して口にしなかった父の一番願ったことだったことを思い、尽きない悔いに涙されたのでしょう。そしてその涙は何度読んでも私の涙を誘うのです。
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