2013年1月22日火曜日
オヤジの蔵書
オヤジの蔵書
オヤジが二回目の召集を受けて大阪部隊に入隊したのは、敗戦も間近い昭和二十年の春のことだったと思う。兄貴は入隊していたし、浩以下は学童疎開でいず、男で家にいたのは私だけだった。オヤジは毎晩兵営を抜け出して来て、牧師館の横にでっかい穴を掘り始めた。栄養失調気味ではあったが、ただ一人の男性として、やむなく穴掘りを手伝ったのを覚えている。
六月五日、神戸大空襲で聖ミカエル教会の聖堂も牧師館も完全に灰となった。終戦を東京で迎えたオヤジは、他の人より一足早く帰還して、早速焼け跡を掘り返し始めた。何が出てくるかと固唾を飲んで見守っていたわれわれの前に現れたのは、聖餐式の道具と本ばかりであった。しかも湿気で背表紙が取れていたり、しみやカビだらけの本であった。ひもじい毎日を送っていたわれわれの落胆ぶりは想像にお任せする。
昭和四十五年十一月、オヤジの死去の後始末がそろそろ一段落したころ、蔵書をどうするかという問題が生じた。日本語の本は家に於いて、洋書は松蔭女子大学と八代学院大に寄贈することにした。整理し始めると、あの懐かしい背表紙の取れた、シミだらけの本が出てきた。戦災ですべてを焼いてしまったわけだから、蔵書の九十五パーセントは戦後購入したものであったが、それらの本の間にカビ臭い、みすぼらしい本が点在していたのである。毎晩大学から帰って来て、これだけは焼いてはならないと埋めていった本とは、どんな本だったのか、興味をおぼえ、最初の一冊を手にとって見て驚いた。「フッカーの教会法理論」〔キーブル版、一八三六年〕の第二巻である。感心させられた私は、かび臭い本を全部抜き出してみた。ウエストコットがある。ホートがある。ライトフットもあればストリーターもある。モーリスのもでてきた。イギリス教会史を選考する私にとってありがたかったのは、久しく絶版になっていて、しかも神学院や立教の図書館にもなく、ましてや他の一般大学にないような本が出てきたことである。主だったものを少しあげみると
R.W.Church Book1of the Lows of ecclesiastical Polity, 1868 C.W.Child, church and State under the Tuder, 1890
Clarendon, The History of the Rebellion and Civil Wars in England, 1839 H.Gee, the Elizabethan Prayer Book & Ornaments, 1902
The Pythouse papers, 1879,
などである。パーカー協会叢書中ジュールやグリンダのもあったし、ステイーブンスとハントの編集になる『イギリス教会史』もあったディシューン『キリスト教の礼拝』があったのにも感心した。悪いけれどこれらの本は寄贈しないことにして、オフクロの了解を得て持ち帰った。ジーの『イギリス教会史資料集』はいまだに重宝している。
オヤジは正規の教育を受けなかったので、学問を身に着けたものに対して異常なほどの尊敬を払っていた。国立大学の卒業生や、ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語などを読める人間をこよなく愛したのである。正規の教育を受けたわけでないから、系統的に本を集めるということも親父はしなかった。事実残された蔵書は、まさに玉石混濁の観を呈していた。
素晴らしい美術書と三文小説が並んで於かれ、とっくに時代遅れとなった神学書がドラッカー、パーソンズ。フロム、マルトル、カミューなど戦後脚光を浴びた人々の書物と平和共存していた。それだけに戦時下のあのわずかな時間を利用して、これだけはと埋めていった書物が学問的に価値あることを知って、思いを新たにさせられたのである。
「オレは雑学博士だから雑文しか書かない」と言いつつ、オヤジは寸暇を惜しんで筆を走らせていた。しかしこの口癖となった言葉の背後には、大学出や、外国の神学校出に負けるものか、という自負が秘められていたのではなかっただろうか。体力〔腕力?〕やレトリックで人々を一時的に従わせることは不可能ではないであろう。しかし永続的に人をひきつけるためには、カリスマ的なもののロゴス化が不可欠である。H.Yashiro 〔昭和十五年の主教聖別の時にミカエルというクリスチャン・ネームが出来たので、以後はM.H.Yashiroと署名されている。〕と署名された、背表紙の取れたカビ臭い本は、正規の学問をした人間に負けないために、オレはこれだけ勉強したんだ、といった執念を示しているように思えてならないのである。 立教大学文学部教授
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父は事情により立教大学を中退し、以後Under Graduate〔学士過程)の教育を受けることはなかった。後にバシル主教より司祭按手を受けを英国ケラム修道院にて学んだが、学者としての諸過程は踏んでいなかった。 次兄の文にあるように 父は学問を身につけたものをこよなく尊敬し、愛した。 決して卑屈にならず、謙譲の心となっていたのだと思う。そのことがいっそう父の人間的魅力となったに違いないと私は思う。
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