2012年4月27日金曜日

第二次大戦下の八代斌助 2

八代斌助師の思い出 富岡哲郎 元兵庫県警特高課員ーーーーーーーーーーーーーーーーー 八代斌助先生は宗教的信念の人であり、第一次世界大戦中日本の輿論が極端に偏向したとき、敢然とその信念を活用され、日本での基督教のピンチを救われ、終戦後も宗教界・教育界に御尽くしになられた方でした。 明治三十八年(1904)日露戦争の結果、日本は満州鉄道の権利をロシアから譲渡され、次第に渡満する人が増し、日本の勢力が浸透するに従い、現地の勢力者と日本軍の間に紛争が起き(1931)、日支事変(1937)にまで進展し、百万の陸軍が大陸に戦線を展開し、その結末をつけないでアメリカ合衆国と戦を始めた(1941)。軍部の独走が国民の生活を苦しめ、その大東亜戦争に敗れるに到ってかってない屈辱の時代を迎えた。 現在経済大国に復活したが、過去を振り返り、将来の進路を決め、正しく勇気ある前進を期待します。 次に私と関係の深い八代先生の思い出を記しご参考に供します。 大東亜戦争が始まると戦線は南半球にまで広がり、フィリピン、ボルネオ、ジャワ(インドネシア)、ニューギニア、インドシナ半島、タイ、ビルマまで広い地域で戦ったのでその補給路の維持、物資の欠乏対策に困るようになった。そのため経済統制が行われ、生活必需品が切符制で供給され、国力の結集が叫ばれ、挙国一致、一億一心の精神運動が盛んになり、独逸ヒットラー、伊太利ムッソリーニなどのファッショ体制の確立、ロシアの共産主義体制の強化にタイアップするように、日本でもファッショ化して行った。 昭和十七年になると思想信仰の統一が叫ばれ、法令による以外に強制事業が増えた。内務官僚は、宗教関係で「仏教は各分派を八宗に纏め、基督教も一本にしばりたい」とし、文部省による行政指導に加え特高警察の実力を利用しようとした。当時、私は兵庫県警察本部特高課に勤務し、出版物と宗教取締りの責任があったので、本庁の行き過ぎを心配した。 本来警察の任務は、過ちや行き過ぎを制し、民衆の治安、財産、生命を保護することを職責としているので、予防警察の範囲を超えて民衆を指導するのは誤りであります。 然るに宗教統制にあっては「中央で決めた計画により特高が指導者になり、各宗統合すべし」と言うのである。仏教関係では兵庫県に大本山がなかったので良かったが、聖公会では総括責任者の八代先生が神戸に住み、全国の教会や施設を指揮しておりましたので、本庁から私に「八代先生を説得し、基督教合同に踏み切らしめ、滅私奉公の実を挙げしめよ」との指令があった。 仏教各宗の実情は表面一つになっても伝統の主張は変えてないで、諸寺の内紛が看守されていたので、心からの団結でなければ互いに力を結集することが出来ない。例え数戸で飼っている鶏でも一箇所に集めると喧嘩するものができ、なかなか仲直りが出来ないと同様で、人間で在るだけで理論だけ、或いは強制では何ともならない。各自そのところ、その姿のままで充分協力できるのだから、そのままで国に尽くすべきであると考えていた私は、八代氏に会ってその考えを確かめてみたい、又国の方針である以上説得もせねばならないので、岩谷辰三部長(後警部退官)の案内で訪問した。 八代氏の住居は今のミカエル保育園のところにあり、玄関二畳の間の破れたソファに招じ入れられ二人の問答が始まったのです。 富岡「貴家は日本人か」―――――――――――――――――――――――――――――― 八代「左様」――――――――――――――――――――――――――――――――――― 富岡「しからば今回の宗教合同につき賀川豊彦氏は同意したが、貴家は頑として教会合同に反対している由、孝を改め国策に添い、合同に踏み切る気はないか。―――――――――― 八代「ない」――――――――――――――――――――――――――――――――――― 富岡「理由は」 八代「信仰は心の問題であって『正しい』と信じている道を曲げる訳には行かぬ。私は牧師であるが、陸軍予備少尉で召集があれば軍務に服す。最近は町内の防空演習にも参加しているが、宗教に対する政府のやり方は光輝ある日本の歴史に汚点を残すことになる。旧教、新教、其の他各派は夫々信ずるところに従い、信仰を固めている。急に一つの枠の中に入れても素直に溶け合うものでなく、内部的に違和を生じ、政府の考える総力結集は実現できない。私はあくまで反対です。――――――――――――――――――――――――― 富岡「昭和の天草四郎になるのか、投獄されてもか」 八代「然り」――――――――――――――――――――――――――――――――――― 私は感動した。 富岡「先日九州帝大某教授の論文中に『基督はユダヤの忠臣である』との文言があり私も左様思っていた。貴家は法律に違反した訳でなく、私は個人としてはその行動を是認する。日本が秦の始皇帝焚書の誤を繰り返し後世の物笑いになる歴史は作りたくない。」 八代「同感です。私は自分の宗教に殉ずる覚悟です」――――――――――――――――― これで初対面は終わり、結果を本庁に報告すると共に微力な下級官吏であるわが国の進路を誤らせたくない、事態により争臣になると決心したのであります。 本庁から「八代は国賊である。逮捕せよ」と言ってきた。私は「兵庫県では彼を拘引する資料が皆無である。証拠を送られたい」と断った。その数年前私は本門法華宗の神宮不敬罪を摘発した。京都府警が大本教に手入れして以来の事件として重要視されたのであるが、いずれも法令違反の故であり、今回の事案とは性質を異にするが、本庁は私の動きが理解できなかった。私の存在が国策遂行上邪魔になったか南方派遣志願の薦めがあった。 約半年前、私は前課長高山一三氏(後広島市助役)に南方志願の可否を尋ねた処、 高山「私は前任地満州で三年過ごしたが、見ると聞くとでは大違い、内地では満州を王道楽士と思っているが、実情は軍が独走横暴で理想実現は程遠い。君が南方へ行っても、実効が上がるとは思われない。内地に居て今の職務と真剣に取り組むべきだ。」と諭され、心を翻し、仕事に打ち込んできたのではあるが、連休を利用して上京某公爵や某海軍少尉に面会、内外情勢と自分の進むべき道を相談した。両氏とも、「現在は国力の測るべきときである。重要な職責を棄て広い南方の僻地で何をやるのか」と言う。私は高山さんの言葉が身にしみてきた。 かって三度渡った二重橋の前に戻り、沈思黙考、思を決した。 帰途熱海で下車し、熱海ホテルに止宿されている高橋海軍大将のご都合を伺った処、明朝午前十時ごろなら面会できると言う。私は決心がついた事だし、同行の塩田富蔵氏のご好意を謝して帰県し、「世界および日本の情勢分析、特高人の在り方、私の職務、之に当たる決心」を書き綴り意見書を上司に提出した。ちょうど特高課長が欠員で翌日南方行きを勧める警務課長と会った。 「南方派遣は本人の志願を原則とするので、出向の命令は出さないし、職階は現職のままであるが、君の志願を強請する」と言うのである。私は断った。「然らば故郷へ帰って百姓でもするんだね」と言われ、「明日辞表を提出する」と約し、十一月二十六日辞表を提出したが、月が変わっても「止めろ」とは言わないので、平常どおり勤務していたが、あまり決定が長引くので督促したら大東亜戦争開始一年目の十二月八日付けで依願免官の指令が出たのです。私は後事を岩谷君に託して野に下った。 八代師はその後憲兵に召喚留置されたり、召集を受け朝鮮の部隊に入隊し、合同問題は終戦までお預けとなった。終戦後八代師は国際親善使節として欧米に使いされ、使命を果たされた。その後専ら宗団と教育の問題に取り組み全力を尽くされたのです。 日本に進駐した米軍は学校の教科書を集め、かつ焼かしめた。秦の始皇帝の二の舞であるが、日本人の思想を混乱せしめ、現在では米帝国主義粉砕を叫ぶ分子が増えた。藪をつついて蛇か。私は百年先、千年先の人々の批判が聞きたい。 松蔭は伝統的に良い家庭人を育て指導してこられた。八代先生の遺訓を体し、皆様が立派な方として社会に出られるよう期待しています。――――――――――――――――――― 「青谷」(松蔭女子学院同窓会誌) 昭和45年12月号________________________________ 父は、父を取り調べた憲兵さんたちとは 戦後もずっと親交を保ちました。そのひとりは信仰に導かれましたが、それは父以上に母民代の影響によるものだとも言われています。母は取り調べに来る憲兵さんたちを常に丁重にもてなしたので 何も知らない子供たちは「おじちゃん、おじちゃん」となついたそうです。投獄されたときも子供たちには何も言わなかったと聞いています。 明治の女性の強さを感じます。

2012年4月21日土曜日

第二次大戦下の八代斌助 1

第一線部隊の八代先生  後藤宗令  -------------------------- 自分は日支事変当時から現役で軍務に奉公してきたが、昭和二十年四月十五日、護朝三部隊に編入されたものだ。その隊の第一中隊の第一小隊長に不思議なロートルの少尉がいた。いつもニコニコと笑っていた。 いまのプール女学院の向かいの小学校校庭に集合させられたのだが、そのときのことである。連隊長はこの間、予備役に編入されやれやれとばかり若い婦人を後添えに貰って余生楽しもうとしていた矢先の召集だけに頭に来ていた。馬上豊かにと言うところだが、やせた中佐で、「お前たちの命を貰った。将校の服装調査をする」とつかつかと将校たちのところに進み、一人ひとりの前にやってきて、「こら、背嚢をどうした。」こら、水筒は」「こら、双眼鏡は」と怒鳴っている。われわれ下士官級は「おっさん、ええぞ、生意気な将校たちをやっつける連隊長は偉い」と思うていたものだ。 ところが、背嚢もメガネも、'何もない老少尉ひとり悠然として老連隊長を見つめている。 「あのオッサン、なぐられるのかなあ」と思っていたら、連隊長何も言わずさっさと引き上げていく。「分からないな。裸みたいな格好で、何も持たず、それでいてたたかれもせず」と思ったことである。 そのうちに編成が終わって、みんな小学校でねることになる。その老少尉は由良という軍曹に 「オイ、オレは何にも知らないから、よろしく」と二階に上がって、ごろりと寝てしまった。 大隊長は。また日支事変に召集され、もう戦争もあきあきで召集解除になってようやくすばらしい奥様の養子様になられたばかりだ。このお方もがたがた二階に上っていく。やがて、「コラ、誰だ」「ウン」と言うやり取りが聞こえる。なんと二階の暗いところで、大隊長つまづいたらしい。そこに第一小隊長がねていたのだ。そして、「貴様何商売だ」「あぁ、ヤソの坊主だよ」 「ヘイ、戦争勝つか負けるか」 「負けるに決まってる」「お互い仲良くしてやろうな」と話し合っている。この小隊長と大隊長の話し合いで、みんな宿直をきめて、夜は家庭に帰ることになった。 自分は第一夜の宿直にあたった気の小さい某銀行の男のもとに配属させられたが、この第一小隊長が、今自分の仕えている八代先生なのである。先生は毎晩家に帰って、防空壕を掘って、教会のものや本などを入れておられた。それから朝鮮に行くことになるのだが、背嚢も、めがねも、みんな子どもさんにあげて、四月二十一日大阪から立たれたのであった。奥様が兵庫県特高の岩谷さんに伴われて、神戸駅でお会いになろうと言うのに、先生はもうぐっすりねておられた。 下関では兵隊が満員の盛況で、朝鮮行きの船を待っている。「ちょいと行ってくるぜ」とぶらりと出掛けた先が、今も先生のもとの家におられる中村夫人の教会であった。またポカンと帰ってこられると、サイベリア丸の馬のならんでいる船倉の前で、わらに腰掛けて、本を読んでおられた。いまから思えばイエス様のベツレヘムの馬小屋でも思い出しておられたことと思う。 京城の竜山とか言うところにいた何日かは、いつも教会に出て行かれる。 いよいよ命令布達式とかいって厳かな式典があって、先生は連帯旗手のすぐうしろで、第一小隊長として立っておられた。軍刀を抜くところに来たら、うまくいかない。ようやく抜いたら、連帯旗手殿のくびの後ろを切って終った。すんでから、「えらいこっちゃ、でもあのオッサン、血が出てもちゃんとしていたなあ」とうそぶいているのだから、こっちがびっくりしてしまう。 いよいよ出発,世邑から上って茂長に出て、松山里の陣地に着く。先生は挺身奇襲隊長だ。すべてに似てもにつかぬ毎日で、朝鮮部隊を訪問し、 世邑にいられた牧師さん(黒瀬主教の姉婿さん)のところに紅茶を飲みにみなをつれて行ったり、出張しては京城の工藤主教に会いに行き、水原のシスター様たちを慰問し、京城の日基教団村岸牧師、カトリックの岡本司教と懇談するなど、忙しいしかも悠然とした毎日をマイペースにのせて動いておられたのには驚くばかりであった。 レクレーションの好きな人で一週間一度の夜のつどいは楽しいものであった。 おまけに歩兵操典も、陣中要務令も持っていないし、図嚢のなかには、英語の本が二冊。後で聞けば聖書と祈祷書だったという。毎朝隊長がいなくなる。うしろの小高い丘にのぼって。ムニャムニャやってる。部下もみな自分の宗教をまねてやってる。しらみがついて貧血で倒れた兵隊を慰めたりするのは実に堂に入ったものだった。三観兵舎の中で、夜になって皿に油を入れ、灯心を挿入し、其れで何か英語の文章をかいていたものである。 東条閣下の戦陣訓もよませず、勅諭も暗記していなかったようである。ただ朝礼だけはうまいものであった。 「皇居に向かって、天皇陛下に敬礼、故郷に向かって、父上、母上にご挨拶」とやって、「海行かば、水づく屍・・・・」をすばらしい美声でやりだすと、みんなしんみりとその時間だけはすばらしいものだった。 一番困ったのは、護朝三部隊の陣地に、米軍が上陸して来るから、英語学校を開校するというときのこと。ところが、兵団長がしょうのない仁で半キチガイといわれたひとであった。外国に一度行った将校や英語のできるものは志願せねばならぬのだ。部隊からは大丸の宣伝部長、甲南汽船の御方などが出た。もちろん先生は外国の博士であるし、京城までは行ったが、しばらくしたら他の人は残って、先生だけが帰ってこられた。「万葉集のように上等なクラシックな英語がヤンキーさんに分かりませんよ」と、さっさとお帰りになった。後で聞けば、大丸のお方は兵団長の部屋で、朝から晩まで不動の姿勢で暮らして、挙句は肺炎で死ぬと言う悲劇も起こったものだった。 そうこうしているうちに、昭和二十年六月のある日、先生は参謀本部にB29の捕虜の調査官を命じられて、我ら部下を残して日本に帰られることになり、みな泣きましたよ。外国人を妾にしているスパイだなどといわれた先生が、いまや祖国日本のために立ち上がるのである。後で聞けば、アメリカの捕虜たちも先生に対しては何でも告白したそうで、もう一切が終わったことを知った先生は、偉い上官が逃げた後、兵庫県の英語の教官を引率して、無事に神戸に帰られたものであった。なにかといえば、度胸のある親分であった。先生さえ側にいたら、みんなが生死を忘れて、人生の一こまをいつも楽しみ得たものであった. びっくりしたのは、戦いがすんで、自分たちが遅れて帰還したとき、先生はあっちこっちで勤労奉仕をしておられるではないか。第一線ではなに一つ持ったことのない先生は、土建業者もびっくりして、「和製のゴリラ」とあだ名を呈上するほどのお方であったのだ。 西郷、乃木、ああした偉人の側にいたのかなあと思われることが、私ども部下の楽しい思い出である。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 記  戦時下の日本で、日本国民とキリスト者とをどう両立させるかは大きな苦しみと選択であったと思う。 自分ひとりではない。父には守るべき信者、家族、地域の人々、本国に帰れなかった異国人たちがいた。 父は自身の信ずるところにしたがって国家に抗ずるところは貫き、一方従うべきは涙を呑んで従った。その一つが集団疎開であった。小学校の生徒が集団疎開に送られることが決まったとき、有力者の子女は私的な疎開をした。父は地域の人々と同じく当時、小学校の三男浩、四男胖、三女公子を疎開に送った。戦争が終わり迎えに行ったとき、一人違う疎開地に送られていた公子は痩せてミイラのようになっていた。父は始終食料を調達して疎開地に送っていたのである。その食料は一体誰が食したのか。。 「ああ、自分に信仰がなければ この責任者たちを殺していただろう」その著書の中にこう記されている

2012年4月15日日曜日

若き日の八代主教   桑原勝太郎

<人に惚れられよ> 八代主教の青年時代は、須磨聖ヨハネ教会の八代長老(今は司祭)であった。清貧にして、子供さんは多く、その生活は大変なものであった。だが不思議と朗らかで、それに加えて魅力的な先生であった。接した者、ことごとく何物かにとり憑かれたと言いたい程、八百屋、魚屋、郵便や、牛乳屋、みんな好感を持たざるを得ないような人柄が滲み出ていた。まして信者に於いておやである。先生、悟って曰く、 「牧会の秘訣は男にも女にも惚れられることである。女に惚れられるのは至難の業ではないが、男に惚れられる男になれ。」 当時教会は青年男女が多く活気に溢れていた。恋愛を良くまとめていたが、決して甘やかしておかなかった。 「好きだの、寂しいだの、くだらないことを云うな。勉強しなさい。読書してその内容を批判する手紙を交換し、お互いの頭を啓発しなさい。 <牧師の行く先は聞くな> 青年牧師八代先生は勉強の鬼であった。貧しいのによく本を買い、夏などパンツ一枚、書斎とは名ばかり、三畳の部屋で神学の勉強をしていた。泣く、わめく、騒げばあやしながらである。 此の頃最初の出版著書「主イエス」の原案が完成した様だ。よく訪問もした。疲れると夜など広瀬ナオミ婦人伝道師を牧会の打ち合わせもあり訪問された。此のときは必ず随行を命ぜられたが、帰途いつも広瀬さんのコーヒーは天下一品と称していたが、その表情より察せられたのは、打ち合わせは第二でコーヒーに引力があったことは間違いない。 旅人をねんごろにもてなせ、でよく招いた。民代夫人に無断であり、俸給を貰う前である。人が玄関から入ると奥さんが裏から風呂敷包みを持って出た。 小さな教会でもあるが晩祷は寂しかった。広瀬先生の他は自分ひとりの時もあり、八代先生の大活躍にも拘らず、笛吹けど踊らずである。信者ひとりであっても説教団より完全に準備した内容と熱弁が飛び、大会衆を前にしたと同様の語気であり敬服したが、また気の毒にも思えた。訪問しても集うものなし、先生は何処を訪問するのか聞いた。 「牧師の訪問先は聞くべきでない。云うべきでない。思わぬ弊害の生まれることあり。」 そして今は信者は集まらないが、と眼を輝かし 「俺の聖職在任中の最大の目的は、皇太子殿下に洗礼を施すことだ」 <人をよく赦した。> 先生はよく礼拝堂の掃除をした。腰掛を移動し、掃き、雑巾がけした。よく手伝わされた。或る時、礼拝堂の窓枠の上に火のついたまま置き忘れ自然に消えた煙草の吸殻を「オイコレ」と言われ、鼻先に出されてギョッとした。無人の礼拝堂、若し消えない中にカーテンにでもふれたら、一夜にして聖ヨハネ教会は灰燼に帰していたかも知れぬ。流石におとなしい先生も、今日は黙っていまいと覚悟していたが、何事もなかったような顔をしている。人を赦すことの何んと偉大なる牧師よ。此の牧師は大物になるぞ。、此の人のためなら何でもしてやると心のうちに誓った。 そうは思ったものの、数日後に今度の晩祷に説教を一度してみなさいと言われた時には参った。躊躇逡巡していたら 「選ばれた時に、自分はそれができる人間でないと拒むのは神への傲慢である。できないながらも努力してやりますと受けるのが神への謙譲である」 寒くなってからの掃除のとき、今度のクリスマス礼拝は深夜にやる。聖餐式もする。君も来なさい。 遂にその夜は来た。珍しくて胸の躍る思い。午前零時。須磨の教会稲葉町あたり人は寝静まり声なくて、風の音のみ、集る者、民代夫人、広瀬婦人伝道師、そして自分、いとも静寂と荘厳のうちに終わった。 以来ミカエル大聖堂現在の深夜礼拝に’至るまで連綿として四十三年続き、八百余名の集会の誕生となった。八代先生の創ったもの、実に奇しきかなである。「おそるな小さき群れよ、両三人集まるところ我も在るなり」先生は此の言葉を信念としていた。それが実現されたのである。 <神戸の大洪水> 八代先生、遂に招かれて神戸の中央、聖ミカエル教会の牧師となった。淋しい町から目抜き通りへ出た感があった。信者に余裕のある方あってか、お布施が多くあったか、ヨハネ教会時代余見受けなかったが、酒に縁ができ、花隈のクラブに飲みに行くのにお供したことがあった。先生は強い。その帰り昇り坂を上機嫌で千鳥足のとき、運悪く?バシル監督(主教)に見つかり、いとも静かに八代さん貴方はお酒を飲みすぎてはいけませんよと忠告を受けたと、テレ臭そうに話したこともあった。 しかし勉強の鬼はさらに大鬼になって行った。ソファーにもたれ、両袖に板を渡して仮の机となし、夜の耽るのを知らなかった。 日支事変が始まって間もない頃、神戸に大水害が訪れた。山は崩れ、川は氾濫し、交通は国鉄を初め、全部途絶、元町通りも泥で埋まり、大丸、三越あたりの角地につぶれた家が、寄木細工のように積った。溺死者は筵をかぶったまま路傍に放置されているのを見た。わずか二、三時間の大洪水である。 此の時、八代斌助牧師は獅子の如く敢然として立った。人の本性は非常事態の時に瞥見されるものである。神よ、信徒の上に平安あらんことを、と祈っていては遅い、今、何が必要か知っているか、塩だと答えたら、異う水だ、飲み水だ。言い終らぬうちに台所に飛び込み一升瓶に水を五、六本つめた。半パンツに長靴、居合わせた若者を従え牧師館を飛び出した。東灘から西は須磨まで点在する信徒の身を案じて歩いていく。 騒然と云うか、凄い勢いと言うか、即決して飛び出す姿は実にたのもしい牧師であるかなである。土方の二人や三人、蹴飛ばす牧師でなければ、、普通の牧師にできる業ではない、と思った。 <四十歳の主教誕生> 数年後、八代牧師は抜擢されて、神戸教区主教となった。青天の霹靂。わが耳を疑った。第一、年が若い。四十歳、昭和十五年、日本聖公会記録的な若さである。 神学校では優等生と自ら言っていた。また同級生と激論し寮の窓から抛り投げ、そのため退校?されたとも言っていた。その後上海に行き、魚屋の御用聞き、株屋の外交員をやり、長男なるがゆえに働いて大いに国元に送金したとも言われた。ケラムに行けば暴れん坊主で神父様も顔をしかめ,凡そエリートなタイプとは縁遠い野生的な牧師である。 それならどうして主教に。若いときから案外側にいて見聞したことから自分なりに考えると、人間的魅力に溢れていた。 決して自分を高くしなかった。 勉強の鬼であった。 八代主教の誕生は、みんなが押し上げたのである。主教の言葉の二つが今でも耳に残る。 「教会をわが家と思え」 「常に夢を持て、祈れ、必ず、報ゆられる」 建材店主------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------ 記 須磨の聖ヨハネ教会の信徒の方は父と一緒にミカエル教会に移籍されました。 牧師館である私の家はいつも来客が多く、人でいっぱいでした。父は、桑原さんのような、父を大切に思う一人ひとりの信徒の方々に支えられていたんだなと感謝の気持ちでいっぱいです

2012年4月12日木曜日

1950年 オーストラリア新聞報道 http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/2783646?searchTerm&searchLimits=l-publictag%3DBishop+Yashiro

BISHOP YASHIRO'S TRIBUTE TO NURSE KILLED BY JAP In the quiet of the historic church of St John the Baptist, last night, Bishop Yashiro, Anglican Primate of Japan dedicated a small bamboo cross to the memory of May Hayman, a Canberra nursing sister, who was killed by Japanese soldiers in New Guinea in World War II. Bishop Yashiro was attended in the ceremony by Padre H F Bashford, of the Royal Military College, a former prisoner of the Japanese. Padre Bashford acted as chaplain during the dedication While Bishop Yashiro spoke of the desire for peace inside the small Church, two policemen patrolled outside. There was no attempt at a demonstration. "We have had a terrible time in the last ten years, and we must pray for guidance of the statesmen of the world if peace is to be maintained," said Bishop Yashiro, after dedicating the cross. He revealed that he had attended the Lambeth Conference in England and the World Council of Churches at Amsterdam two years ago. Throughout those conferences, he said the predominant trend was the visible and invisible evidence of Christian faith. "I believe in the great power of Christian adherents all over the world, to get together and maintain peace,” he said. Bishop Yashiro said he regarded it as a great honour to dedicate the cross in memory of Sister Hayman. "Sister Hayman was killed by cruel Japanese soldiers. I am here to express my sympathy, and I believe that there is nothing in the world which can cut off Christian faith," he said. "We all belong to one body. The body of the followers of Christ. No one can ever cut off this wonderful Christian fellowship. Christian fellowship comes from God and no one but God can control it.” Bishop Yashiro revealed how the Kempei Military Police of Japan had interrogated him during the war because he had prayed for the safety of missionaries. Declaring that peace must come from within the heart, Bishop Yashiro said that it was difficult for the average person to secure peace because he was faced with so many difficulties. "Let us pray, to Almighty God for peace and I know we will obtain it," he concluded. Among the clergy present at the service were the Bishop of Goulburn, Rt. Rev. E H Burgmann, Archdeacon, C S Robertson, Chairman of the Australian Board of Missions, Archdeacon R B Davies, Rev. R Border, Rev. G F W Pyke, Rev. Baskin, Canon Garnsey, Rev. H McCallum. Relatives of Miss Hayman were also present. CRITICISM "PROVINCIALISM," SAYS RECTOR. "Criticism of the visit of the Japanese Anglican Bishop Yashiro by Mr P M Kerridge displays a provincialism commonly associated with the uninformed," the Rector of St Paul's Church, the Rev. R Border, said in a statement yesterday. "Mr Kerridge and those who have similar prejudices would be well advised to make themselves familiar with the activities of the Japanese Christians in relation to prisoners of war," he said. "When Mr. Kerridge asserts that it is asking too much to forgive and forget so soon he expresses the sub Christian view point that finally asserts itself as Fascist intolerance. If Mr Kerridge really wishes to see the Japanese inculcated with the precepts of love, mercy and forgiveness, he can demonstrate these with a donation to the missionary work being done in Japan, possibly handing the donation to the Bishop himself." "BISHOP'S FIGHT IS OUR FIGHT" The Editor, "Canberra Times," Sir, The bestial atrocities of the Japanese will never be forgotten so long as there remains one soldier who faced them or one mourner for a victim of their savagery. But there is in Japan a small company, the Christian Church, which is striving to banish forever the law of the jungle. If failure attends their mission we can be sure that in a few decades the world will know once again the menace of Japan. Since the war ended converts to the Christian faith in Japan have doubled. Bishop Yashiro, Christian gentleman and leader of that small but rapidly growing army is here as a guest of Australian Anglicans. Are we to send him back to Japan encouraged and strengthened for his mammoth task, or is he to return mocked by the attitude of professing Christians? Insofar as we are Christians, Yashiro's task is our task. His fight is our fight! He is carrying on where we left off on VP Day. Let us all recognise this and back him by our sympathy and prayers. I am. Yours faithfully, Rev. John Baskin, Members, North Canberra RSL Ainslie. 父が 終戦後平和使節として 西洋諸国を訪問したことは有名ですが、戦場とならなかった英米と違い、多数の犠牲者を出した オーストラリアの対日感情は悪く、その旅は過酷であったことが 著書「ああ、濠州よ」に記されています。 私は 当時の新聞が必ずあるはずだから 何時か州立図書館に行って調べたいと思っていましたが、ネットでこんなに簡単に入手できるとは思わず驚きました。

2012年4月9日月曜日

八代先生の印象 吉野丈夫 日本基督教団牧師

八代先生は磊落で、太っ腹で、それでいて、とてもこまかい処に気のつく、あたたかい人だった。 私はある時、徳島のインマニュエル教会で、伝道集会を、先生と一緒に受け持ったことがある。 八代先生は、このとき、私より少し送れてお着きになった。入り口に、お立ちになった先生は、牧師さんの二人の小さいお子さんの頭をなでて、「ああ、おじさんは一寸忘れ物をしたよ」といって、急に外へ飛び出した。 暫くすると、先生は、両手に菓子袋を一杯持って帰ってこられた。「坊や、坊や、お土産だ」と、お子さんに渡された。 あのときの先生の優しい顔を、私は忘れることが出来ない。その晩、一緒の部屋に寝て、安易に聞けない牧会上の苦心について、いろいろ面白く教えられたことを、印象強く憶えている。‘ 八代先生は人一倍頑健で、大きな体格をしておられたので、ある時、こんなことを仰った。「吉野さん、もし進駐軍の黒ん坊に襲われたら、逃げないで、大きな声で「アイム、ビッショップオブ、ジャパン」というんだね。大抵は尾をまいて逃げて行きよる。これはおまじないだよ。堂々と大声でね・・・」 併し、先生のような、大型な体格をもって居ればともかく、僕には通用しそうな、まじないでなかった。 昭和十九年、戦争急迫を告ぐる頃だったと思う。生田区の山手に住む、地域責任者が集まって、防衛問題などで協議会が開かれた。場所は四の宮神社社務所、集まるものだいたい二十名くらい、座長は八代先生、それは、あつい夏の晩、会議半ばになって、先生は、「こんばんはとても暑くてやりきれん、諸君、はだかになって、話そう」と、いいだして、忽ち、先生は、まっぱだかで、パンツ一つになって、話し出したのには、私も肝をつぶした。「これは凄い牧師さんだ」と、びっくりした。 その席で、市会議員の藤井太郎君が「近く、牧師さんたちにも、伊勢の五十川へ行って、”みそぎ"をして貰うことになっています」との発言があった。 八代先生は、このとき「みそぎ」!とんでもない、神戸の牧師さんたちは毎日教会で、みそぎ以上の厳行をして、日本国のために祈っている。この忙しいのに伊勢へ行く。藤井君、それは、直に中止するよう、君から交渉して貰いたい。もし君が駄目なら僕は、いつでも出て行くよ」この一言で、牧師さんの伊勢参りは中止になってしまった。 終戦直後のことであった。八代先生からのご招待で「銀めしの昼食」に市内の牧師さんたちがよばれた。行ってみると、長年口に入らなかった銀飯のライスカレー。肉もたっぷり。牧師さんたちは、舌鼓を打って、この思いがけないご馳走にあずかった。 ところが、翌日の新聞を見ると、「八代牧師、ヤミ米、ヤミ肉で、牧師たちを接待する。」との見出しで、昨日のライスカレーのことがすっぱ抜かれている。 私はすぐその新聞を持って、八代先生を訪問した。「先生偉いことですね。」先生笑いながら曰く、「吉野さん、牧師さんをご馳走するって、神様に、一番喜ばれることをやっただけさ、警察が来ようが、誰が来ようが、俺はびくともせんよ。」 私の目にうつった八代先生は、牧師らしくない、本当の牧師さんだった。先生はこの調子で、世界を、日本を闊歩し、ほんとに日本人らしい、日本くさい伝道に終始された、神戸の産んだ、最大の牧師さんだった。この先生が召され、神戸が急に淋しくなったと思う。 日本基督教団神戸再度筋教会牧師------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 父は手をこまねいて飢えを凌ぐ人ではありませんでした。常に創意工夫して食料を確保しました。戦時中、三田の山から牛一頭をリヤカーに乗せ持ち帰り、自分で捌いて食料にしたという逸話も有名です。 ある時、ヤミ市に関与したとかの罪で危うく検挙されようとしたとき、英国宣教師ミス・リーが急遽米国製公会ミッションに伝え、占領軍司令部を通して検挙は取り下げられたとか。。父の危険を冒した行為は、私腹を肥やすためではなく、多くの人を養うためでした。また、そのようなときには聖公会のみならず日本基督教団その他の牧師様たちも招いたそうです。 戦時中、軍の圧力で教会統合が進められたとき、頑としてそれに抵抗した父は、戦後一貫して教会再一致に尽くしました。大阪万国博覧会の宗派を超えたキリスト教館の館長としての仕事が最後の公務となった事は象徴的です。 戦時中にも又、このときにも内部からの激しい反対にあったようです。父にとって聖公会内部からの離反が一番悲しいことだったのではないかと思いを深めています。

2012年4月7日土曜日

差別の国     生嶋乗薫

差別ということが、今なおこの私達の祖国日本の中で、平然に、冷酷に厚かましくも行われていることへの傷みと憎しみに胸うずかせている人たちには、ぼくの、理屈抜きの八代さんへの恩義を分かってもらえると思う。八代さんはよく、松蔭の教師という仕事を、お前たちが選びとったのだ、と偉そうな言い方をしていたが、それさえも、僕は素直に思える心情であった。 職員会議でいったことだが、ぼくは大学卒業時、就職にあたって決定的な差別をこの社会から受けた。尼崎市の教育委員会は試験に合格したぼくを不採用にした。(まるで七十人のうち二人だけ面接に残してその一方を採ったような偽装をこらし、そのことを後になってまるで刑を言い渡すように父にあかし、父を神経症に陥れた)その後、他府県の私立高校への就職の話をやっとみつけ出し手続きをとっている最中、母校の教頭が問い合せの返電で”ミアワセ“と打った。 ぼくは 大日電線の臨時工になり、めっきの仕事を憶え、本工になれるだろうかと思い始めていた時、松蔭から採用の話があった。十六年前の手続きは簡単なもので、遠足の帰りでレストランに来てくれというので行くと、二階から朝子先生代理の教師が降りてきて、給料は一万二千円でよろしいか、という。ぼくは、くもの糸に手をかけて穴の出口一メートル下までたどりついた感じだ。家は仏教の寺ですがよろしいか、と聞いた。よろしいということで翌日から教えることになった。 実はその日か、その前後に、当時病床にあった浅野校長を囲んでぼくの採用取りやめの話し合いをしたという。僕を共産主義の故に”ミアワセ“というのだ。八代さんの大きな決断がなかったら。僕の人生の門出は又閉ざされていたはずだった、とその後聞かされた。この話を教えてくれた人が誰だったか忘れた。ひょっとすると八代さん自身だったような気もする。作り話かどうか真偽を確かめる余裕もなかったほどのショックのままで、今もって信じ込んでいる。(誰か真偽を知っている人は教えてほしい) この一生背負い続けた恩義と、それから僕の父の葬式で両手を合わせて拝んでくれた恩義とを、僕がどれだけ感じているかを八代さんが生きてる中に言葉として伝えたかったが、かれは理事長、自分は組合の役員ということを考え、私的な交わりを絶ち続けてきたのでついに機会を失った。お葬式の日、親しい友人にこの残念さを話すと、それはおやじさんにいわんでいいことだ。ほかの人につたえたらいいのだ、と教えられ、この機会をお借りすることにした。 八代さんは天皇を敬愛したりして、この差別社会を変革するために戦おうとされなかった。そのことで批判する人も多かろう。僕の心情はそこで僕の理屈を溶解してしまう。 松蔭女子学院高等学校教諭 (「青谷」昭和四十五年十二号)--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 記  生嶋先生は松蔭に通った私達姉妹の四人が学園をともにした。  私自身は教えていただいたことがなかったように思うが お友達を通してご縁があったように思う。 一度中国の学生とペンフレンドになることを勧められ お友達と一緒に中華人民共和国神戸支部(名前は定かでない)に案内された。家に帰ってその話をすると 兄や姉に「中共の子供と文通するなんてあんた馬鹿じゃないの?」と散々しかられた。私は末っ子の洟垂れで、強い意志でやろうとしたことではないので、翌日先生に「家で反対されました」と断りにいった。先生は「やっぱりそうか。そういう国やからあかん」など憤慨されていたが、父に反対されたわけではなかった。父はそんなことに反対する人ではなかった。いやむしろ学究的で反骨精神の旺盛な若者を愛したから、共産主義の先生方を多く採用したのだろう。今の時代に想像も出来ないほど東西の壁は厚く、社会主義国の崩壊など想像も出来ない時代であった。

2012年4月6日金曜日

泣くのではなく感謝を  レオノラ・E・リー

シェクスピアことばに「最上のものを見れば、それを愛さざるを得ない」というのがございます。同様に私どもも、最高のものに向かって奮闘されました偉大なかたを愛さざるを得ないのであります。 私ごとながら、英国でいろいろの学校の子供たちに、八代主教様について語る機械を与えられるごとに二つのことを語ってまいりました。 第一に八代主教様が何か困難なことに出会われたとき、主教様はそれに挑戦することを喜ばれ、腕まくりをして「よしっ」と言われたことであります。こうして主教様は困難なことに立ち向かっていかれました。 第二にいろいろな苦しみや、悩みを持って主教様のところにこられた人に、主教様は手を差し伸べて「よしよし」といわれたことであります。こうして愛の深い暖かみをもって人々を助けてこられました。ですから、どなたでも、もっとも勇気のある、もっとも高い愛に触れましたときに、主教様を愛さざるを得なかったのです。 八代主教様は実に祈りのおかたでありました。 かって、主教様が私をお怒りになられたことがありました。そのあとで「さあ祈ろう」とおっしゃいました。そこで、私どもはひざまずいて、主教様は私がより良い宣教師になるようにとお祈りくださいました。こうしたことによって、主教様はひとりひとりを助けてこられたのでございます。 また、ある時、継母であった八代あい子姉に聖ミカエル学校の校庭でお会いしました時、あい子姉は「リー先生、ちょっと誰かに知ってもらわなければなりません」とおっしゃって、お話なさいました。 ある真夜中、手洗いに行こうとしたあい子姉は、八代主教様が机の前に坐って、祈り、泣き、時にはうめいておられるのを見られたのです。同姉のおっしゃるにはそれは恐ろしいさまだったそうでございます。 私は皆様に主教様の三十三日の病院生活を通じて、次の三つのことをお話したいと思います。 第一に主教様はかって私におっしゃいました。もっとも大切なのは許すことと許されること、これよりたいせつなことはない。 第二に、私の心の中は全き平和だとおっしゃったこと。 第三に、そうでありながら、主教様は病院でたびたび大声を上げて泣かれたことです。人々が主教様を見舞ったときに泣きましたが、これは又、主教様を泣かせることになりました。 主教様は泣いて私におっしゃいました。「あの男は魂のかわきで苦しんでいるんだ」。主教様が泣かれたのはその人を助けたい熱情からでございました。 また、いろいろな委員会や、会合に出られたかたがたに会われたとき、よく泣かれました。 私に書かせられた最後のメッセージ、それは世界中のすべての人にあてられたものでした。その中にはすべての司祭、すべての主教達に語ってほしいこととして、すべての魂をイエス・キリストのもとに導くこと、又、あらゆる教会の会議、集会、いろいろなスローガン、宣言などは教会を世俗の世界の中に引きもどして行くに過ぎない、こういうことはすべてむなしい、役に立たない、すべての人に、はじめの愛に帰ることを、そして、すべての魂をキリストのもとに立ち帰るよう告げてほしいとありました。 八代主教様は、肉体的にはごく普通の人のようにおなくなりになりました。しかし霊的には普通の人のようにおなくなりになったのではありません。主教様は病院につきそう医師や看護婦さんに驚異を与えました。主教様が私たちに示されましたことは、クリスチャンとしていかに生きるかということだけでなしに、いかに死するかということでもありました。 私達は、いま取り残されました。 しかし、私達の心の中には、主教様のまかれた種があります。世界にまかれた福音の種があります。おのおの、心を合わせて、この種を育てなければなりません。 神様のみことばは、学校や教会や幼稚園や、そのほか多くの場所で働く人々の心の中に植え付けられました。それを完全な実りにまで育てたいものでございます。 泣くのではなく、感謝をしたいのです。 勇気を持って、いろいろな困難に立ち向かいたいのです。 愛をもって、多くの人々を助けましょう。 私達の毎日の生きかたに、話しかた、あるいは行いによって、数々の魂をキリスト様のもとに導きましょう。 私は長い年月、八代主教様の生活に触れる特権を与えられてまいりました。私はこれらのことの承認でございます。かって主教様は私に、「世界中の全ての人に私のことを話してほしい」とおっしゃいました。 私は又、日本聖公会がこの偉大な損失と悲しみから、それにもまして、勇気と愛とをもって、私どもの隣人と全人類を改宗するために立ち向かっていくことを、この眼で見ることが与えられましたことを、何よりの特権とも、喜びとも思うものです。 聖ミカエル国際学校長・故人 (神のおとずれ 二十一巻特別号より)-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 記  ミス・リーは英国人宣教師でした。 第二次世界大戦が始まったとき、日本在住の欧米人は本国に帰還しましたが、ミス・リーは英国とカナダの両国籍を保持していたために どちらの船にも乗れないまま日本に残ってしまったのです。 日本人にさえ食料の不足に苦しむ時代、ミス・リーの戦時中の不安と恐怖は計り知れません。 父は北野町にあるミス・リーの家まで食料を運びました。 途中、非国民とののしられレンガをぶつけられて血だらけになってたどり着いたという話を私達はしばしばミス・リーから聞かされました。 父とミス・リーが示したクリスチャンフェローシップは「霊友」というものが真実存在しうることを教えてくれまし

2012年4月5日木曜日

八代主教の思い出   渡辺忠雄

八代主教の思い出 渡辺忠雄 <はじめての出会い>  僕は中学時代に、一年間完全に休学せざるを得ない程のひどい腸チフスに罹ったことがある。非常に激しい高熱のため、昏睡状態を続け、一時的に頭が狂ったような恰好になった。 このため子供時代の記憶の一部が剥落し、記憶に断絶が出来たのではないかと思う。八代君との最初の出会いが頭にはっきり浮かんでこないのも、この辺に原因があるのかもしれない。  僕はこの腸チフスで、その後、身体の発育が止まってしまったが、当時は大男であった。後年の八代君は相撲の出羽の海部屋から誘いが来たほどの巨漢になったが、子供のころは、僕のほうが身体は大きく、腕力も強かったので、相撲か何かで彼を倒した時、ブリキ製の汽車の玩具で怪我をさせ、眉のあたりに一生涯消えない傷跡を残してしまった。 これが彼との交友の最初の記憶である。しかし、それが果たして小学校に入る前の出来事なのか、その後なのか、判然としない。 <先生のご両親> 先生のお父さんは、いつも「秋田魁新報」という新聞を読んでおられたのを妙に憶えているから、たぶん、秋田出身の牧師さんだったのではないかと思う。前任地は函館と聞いている。非常に厳粛なお顔をされていて、ちょっと近寄りがたい感じさえ受けた。その説教は、もちろん子供の僕には理解できなかったけれども、その言葉、態度には、子供心にも厳粛、尊厳というものが、強く感じられた。  僕は、自分の母からたびたび新島襄先生の話を聞かされていたので、この八代先生のお父さんから、新島襄先生の面影をよく連想したものである。  これに反して、八代先生のお母さんは、この世の中で一番心の温かい、そして信仰の篤い立派な婦人だと思っていたし、敬慕の念は未だ変わっていない。彼の家庭は物質的には倹しい生活だったと思うけれども、精神的には心の広い、豊かな生活を子供たちに与えていたと思う。その当時としては珍しい菓子を焼いたり、パンを作ったり、カレーライス――このカレーライスが上手だった――を腹いっぱい食べさせてもらったりした。僕の母親は、子供のしつけに非常に厳しかったので、外で悪戯をしたり怪我をしたりして自宅に帰りにくい時は、いつもこのご母堂から詫びを入れて貰った。僕にとって実にありがたい庇護者をつとめて頂いたものである。 明治の末葉、北海道には中学校が四つしかなかった。僕は函館中学校へ入るため、厚岸というところから、三百トンくらいの小さな汽船で、ペンキの悪臭と船酔いに悩まされながら 一日がかりで、入学試験のある釧路まで出て行かなければならなかった。そのころ、八代家は釧路に転勤されていたので、お宅に泊めていただいた。ところがその夜、猛烈な腹痛を起こし、翌日、病院に担ぎ込まれ、受験は断念せざるをえなくなった。この数日間の激痛はまことに言語を絶するものがあり、まさに七転八倒の苦しみで病室の壁を掻き毟るほどの大暴れをしたそうである。この間、彼のお母さんは不眠不休で母がわりの看護をし、お祈りをしてくださった。 母堂は、このように優しい反面、まことに鷹揚で胆力のある女性だった。彼も僕も、相当の腕白者であったので、いろいろと無茶な冒険をしたものだが、母堂は、いつも黙って見ており、子供たちの伸びやかな成長を楽しむといったところがあった。また借金取りが来ても、臆することもなく、ユーモアをもって応答されていた。子供ながらも、偉いお母さんだなと、感心させれらものである。八代先生の大人としての資質は、恐らく、このお母さんから受け継がれたものではないかと思う。 <晩年の先生> 彼とは、このように幼児から非常に親しく育ってきたので、彼が偉大な宗教家になられた後も、とかく洟垂れ小僧時代の思い出が先にたって、彼の偉大さを割引し勝ちであった。-それにしても、良寛を思わせるような邪心のない、天衣無縫、野人的宗教家としての彼、そしてまた 大胆無敵(不適にあらず) な教育家としての彼には、やはり頭が下がる思いがした。桃山学院大学の過激な教授、学生に対しても、決して彼らを憎んだり、極印を押してしまったりせず、むしろ常に彼らを哀れんで、彼らと話し合っておられたのは立派であった。そうした宗教家・教育家としての彼は実に正々堂々と、やっぱり尊敬すべき存在だった。 彼が宗教界、教育界、また、もろもろの社会的事業のために、心身をすり減らしておるのをみるにみかねて、僕はたびたび、仕事を縮小し、静養すべきことを勧告した。しかし彼は、僕の忠言を容れたようには思えなかった。 一九七〇年二月二十五日付の彼からの手紙には、こういった趣旨のことが書いてあった。 「いよいよ満七十歳になります。「われらが年を過る日は七十歳に過ぎず」と詩篇第十九扁にあります。日本もユダヤも、七十年は、人の世に生きる限界のように語られています。厳かに古希を迎えます。古語にいう、「命長ければ恥じ多し」も、反省の心を与えてくれます。戦前は、「美しく死ぬことのみを教えられた」お互いが、いまは、「美しく老いることの難しさ」を、託つものです。堀口大学の詩った(うたった)「今日一日生きていることを感謝せよ」を心に留めています。貴方も、皆様も、祝福に満たされますよう祈ります」 一九七〇年九月八日付の彼の手紙。 「上枝頭取令夫人の葬儀の際、お目にかかりましたが、あまり厳粛なお顔をしておられたので、奥様にだけ会釈して帰りました。  軽井沢で女子青年の大会があり、それに出ていました。東京まで自動車で八時間半かかり、帰って葬儀に参列したのですが、貴方も二三時間立ち詰めでは大変だったなと思いました。それから、北海道の伝道旅行でした。各地とも、教育委員会の共催で、感激しましたが、無理がたたってしまいました。・・・・  来年一月元日、聖公会総裁を退任しますが、そのため、各地方で、この際とばかり酷使されております。それに、既に、万国博の日本キリスト教館委員会の会長にさせられてしまったが、これも命がけの仕事でした。自分のあとのことには、いろいろ悩みがありますが、今は何も言わず、考えず、この病院で人に隠れて静養いたします。決してご心配なく、ただ仕事を止めて寝ているわけですから。  どうかあなたもお元気でいられますように。」 彼の手紙にもあるように、上枝頭取夫人の葬儀にはわざわざ軽井沢から駆けつけてくれた。彼は、その時の僕の顔が厳粛だったと書いているが、僕は、逆にその時の先生の顔があまりにも憔悴しており、その歩く姿が、この世の人とも思われない様子であったので、「絶対に休養を取らなければいけない、事業を縮小して健康に留意せよ」という手紙を出した。しかし、彼の手紙と行き違いになり、彼は既に腹水を押して北海道へ伝道旅行へ出かけてしまった後だった。 七十年九月十四日の朝、富美子夫人から電話があった。「主治医から、主人は癌の宣告を受けました。予てから主人の申しつけがあって、もし癌の宣告があったら渡辺さんに伝えるように、とのことでしたのでお電話申し上げる次第です。」とのことであった。そこで僕は、「先生はどんな顔をされましたか」とお尋ねじたところ、「意外にも、却って落ち着いた態度で、むしろ、ほっとしたようにさえ、見受けられました」というご返事。 早速お見舞いに行こうと思っている矢先、山田修君(松竹専務)がやってきた。八代先生を見舞ってきた感想としては、「会長が見舞いに行くと涙と涙が衝突するから行かないほうが良い」というものであった。しかしそんなに気力が弱っているなら会うのは辛いが、やはり元気付けに行かねばと思い、九月二十五日、早起きして、神戸の健保中央病院へ出向いた。久しぶり見る彼の姿が余にも痩せ衰えていたので、一瞬驚きギョッとした。しかし、その顔には、赤味が差しており、ぼうぼうと伸びた髭面は、ルオーの絵でみるイエス・キリストそっくりで、生きたキリストに会えたような感じがした。神々しささえ感じられた。お祈りをしたり、慰めの言葉を言ってくださるのを聞いているのが辛い。」それで僕は言った。「生きるも死ぬるも神様の恩召しさ。君のように人々から敬愛せられ、尊敬を受け、そして他人に信仰を授ける人の晩年の言動は大切だよ。」そんなことを話して帰り際、彼は僕の手を握ったまま、お祈りをしてくれた。「われわれ二人は、それぞれ両親を通じて、幼児、友人となり今日に至ったが、どうかこの友とその家族たちのために、神の御恵みを与えたまえ」と。  その日の僕のメモの最後には、こんなことが書いてある。 「この日、忙しさに取り紛れ、夕刻までそれ程悲しい思いをせずにいたが、銀行から帰宅の社中でふと「刈干切唄」を口ずさんでいたら、なんとなく涙が流れてきた。淋しい夜だ。」 <三行の手紙> 一九七〇年十月一日付で彼から、次のような手紙を貰った。原文のまま掲載させてもらう。 「オレは一生涯  こっけいな奴だった  そう思うでしょう        ひんすけ  ただおさま 」 かな文字が多く、かろうじて読める程度の筆力であった。僕はすぐに返事を出した。 「三行の尊翰、有難く拝誦。「俺の生涯はこっけいだと思うだろう」というのは、竹馬の友に気楽に書いた手紙だとも思うが、世間の人は、悟りきった宗教家の含蓄のある言葉と思うかもしれません。 昔の人には、敬意を払うべき人が多々あるが、僕は同時代の人で、マスコミに乗った所謂お偉方の人々には、尊敬すべき人が少なく、軽蔑さえしています。権力と財力の結合するところ、必ず腐敗が起こり、社会変革の危険を孕んでいます。こういう人々の生涯は、ドンキホーテというべきでしょうね。 貴兄は、自ら求むる所少なく、世のため、人のため、心身をすりお減らして尽くされたので、人々から愛され、敬されたのですが、その生涯を通じての働きの空しさを、今、急に感じられたのであろうか。 それとも、形の問題として貴兄の言動を指して、滑稽といってるのであろうか。確かに、貴兄の言動には、牧師先生らしからぬ場合があり、僕は、ひやひやしたことが度々であった。しかし、これは君の飾り気や気取りや、邪心のなさが、君の美点であり、人間的魅力でこそあれ侮辱的、滑稽などとは、誰も考えなかったと思います。君のユーモアは誰からも好かれたのです。神様からご覧になれば、人間の一生は、いかめしいことを言っていても、滑稽なものかもしれませんね。神様もユーモアがおありでしょうから笑ってご覧になっているのでしょう。僕は数年前から君の身体の疲労が酷いといって、しきりに休養を勧めてきた。今度は神様の思し召しどおり、徹底的に休養したまえ。しかし永遠の休養は困る。     僕は九十まで生きるつもりだ。君もそうしてくれ給え。神様に毎朝、毎晩お祈りしています。                                      忠雄 十月三日 斌助兄 僕はこんな理屈っぽい手紙を書いたが、そのころ、彼の魂は、既に天と地の間を往来していて、この手紙を読めなかったのではなかろうか。 一九七〇年十月十日、彼はついにこの世を去った。 十三日の葬送式に僕は追悼の辞を述べるように求められたが、自分にはとても耐えられないので、辞退した。 しかし、十二月五日、立教学院での記念追悼式には、彼の思い出を語った。そこでの僕は、彼の三行の手紙について語り、宗教家として彼が成し遂げた仕事の空しさ、人々の魂を救い得なかったことの心残りを、この手紙は語っているのではなかろうか、という趣旨の話をした次第である。だが、この三行の手紙が究極の所、何を意味するのか、僕は完全明快に解釈しきれたというだけの自信はいまだにもてないでいる。 <むすび>  ふり返ってみれば、彼と僕との交友は、お互いの両親が信仰を通じて親類のようなお付き合いをしていた幼児に始まった。文字通りの竹馬の友である。交渉が繁かったのも、幼年期と、戦後、そして幽明界を異にしてからは、彼の著書、書き物などを、折に触れて引き出しては読み、自由に彼の霊と交わっているが、以前にもまして、尊敬の念と親愛の情を覚える。今後とも彼との霊的交友を深めて行きたいと思う。 (三和銀行取締役会長)------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------ 記  渡辺忠雄氏のこの回想記は何度読んでも眼に涙がにじみます。しかし今回、再び読み返して、多くの人に力と慰めを与えてきた父が、渡辺忠雄氏には強く支えられていたことに気づき、父の盟友としての氏にいまさらながら感謝の念を表したい気持ちです。105歳まで長寿を全うされ逝去された渡辺氏と父は天国にて再会し、旧交を温めていることでしょう。 

「八代斌助の広場」開設にあたり

2008年9月私がブログを通して父八代斌助について伝えよう思い立ち、「八代斌助 その生涯」を書き終え、次に「その人間」を伝えようとして以来、数年の歳月が流れました。自分の手には負えないことに気づいたからです。 父の人間性とは、まさに「一人ひとりの人への愛」につきました。それはそれぞれの人の言葉でしか伝えられないと感じたのです。 ところが、最近友人の勧めで『Facebook』を利用するようになり、ふと妙案を思いつきました。父との交わりがあった方々が、それぞれの八代斌助を回想し、またそれをお読みになった方々が自由に感想を述べる、そんな広場を作ってはどうか・・と。 斯界の有力な関係者を差し置いて、私がこのような構想を発起するのは僭越至極ですが、私が斯も小さき者であるがために、教会やその他の社会的、政治的な関わりに囚われることなく、自由な立場でブログを持つことができるのではないかと考え、断行することにいたしました。私自身は、手元にある書『回想の八代斌助』から、ご執筆頂いた方々の回想文を少しずつワードに写し投稿し、折々に感想を付け加えさせて頂く所存です。出来るだけ早くさまざまな方々からの自由な投稿やコメントが寄せられることを願って止みません。