2013年10月22日火曜日
教会合同にからむ思い出
都田恒太郎 (前日本聖書協会総主事・社会福祉法人敬愛寮理事長) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
八代主教永眠の知らせを受けて、しばし 茫然とした。 「巨星が落ちた」というショックであった。
主教を知ったのは太平洋戦争前、もう三十年も前であった。
私が当時の日本キリスト教連盟の総幹事に就任して、同時に聖書協会の
理事の末席に加えられて出席したときであった。
そのときの聖書協会の理事会は東京の米国聖書協会と神戸の英国聖書協会出張所が合併して、新たに日本聖書協会が出来て最初の会合であった。八代氏は神戸側の代表の一人として出席されたのであった。私が今泉真幸先生や飯田素夫さん、吉田一夫さんたちと会ったのもその会合であった。
その会合で八代氏は 開会の祈祷をされただけで発言はされなかったが、併し黒い服に包まれたあの偉大な姿は、一同に頼もしさと期待とを与えたのであった。その頃の八代氏はやっと補佐主教になられたばかりであったが、聖公会選出のキリスト教連盟の伝道部の委員でもあったので、その後はたびたび会うようになり、口数は少なかったが自信を持った発言をされていた。
その頃、日本のキリスト教会は教会合同運動に直面していた。そして、その合同運動の真只中におかれて悩みぬいたのは聖公会であった。そのときに聖公会の半分は合同教会に入り、半分は非合同として留まった。八代主教はその非合同組の中に留まって、戦後になって聖公会をまとめその総帥となったのであった。
その間、キリスト教連盟の総幹事として合同の中心にあった私と、非合同の中心にあった八代主教とは、相反する両端にあってよく論争をしたのであったが、争いながらも二人の間は親しみを増しつつ進んできたのであった。
その親しさが、何に原因するか不明であるが、私が聖公会の宣教師であったバックストン師によって育てられたこと、私の故郷境市の聖公会が、八代主教の司教区に属していたこと等も原因の一つであったかもしれないのである。
いずれにせよ、私が戦後の日本におけるエキュメニカル運動に参加していて感じ、また 実際に見たところによると、日本のキリスト教会は八代主教の存在によって、よく戦後の目まぐるしい多忙なエキュメニカル活動を処理しえたということが出来るのである。その点において、戦後二十年間の日本のキリスト教界は八代主教のクリスチャン・ステーツマンシップの指導によっているといっても過言ではないのである。
カンタベリー大主教の日本訪問と聖公会内部の調整、日本における最初の東南アジアキリスト教協議会、ヨーク大主教を迎えての世界聖書教会総会の開催などの立派な成果は、八代主教にあって、初めて可能であったといえよう。一つの例をとってみても、八代主教ほど、あの英文の祈祷書をこなして、よく各国代表をまとめて聖餐式を指導しうる人は見当たらなかったのである。相当の騒動もあったが、万国博へのキリスト教会の関与に当たって、主教の存在は高く評価せられるべきであろう。
私は聖公会内部における主教の感化力については、離れているので詳しくはいえないのであるが、主教が多くの孤独の働き人に対して払った手厚い心づかいについては、特にそれを強く感じてきていた。主教の先輩であり、同時に私の先輩でもあった村尾昇一主教への思いやいや、キリスト新聞社を去って聖公会新聞社へ写った和気清一氏への心づかいなどは、今のキリスト教界に暖かい話題となっているのである。
現在、大阪駅近くの堂島に在る日本聖書協会の関西支社の設立とその建物の建築については、主教の大きな協力によったことを忘れ得ないのである。十五年前の関西支社の落成献堂式は八代主教の司式によって行われたのであった。
色々な会合において、「やあー」といって手を握り、肩をたたきあい、協力し合ってきた友人を、今日天国に送って、省みて、混乱している周囲を見て、今更に八代主教が大きな存在であったことを考えさせられるのである。
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