2013年9月10日火曜日

三度目の辞表を預かったまま逝かれた先生 (元桃山学院院長・桃山学院短大学長) ハイジャックされた日航ジャンボ機の乗客ら全員無事のニュースにほっとしながら、三年余りまえ「竹内君、万一学院の学生がよど号のハイジャックカーに入っていたら説得に出かけて、国民に詫びようじゃないか」といわれた先生の言葉を思い出している。 幸い先生のお供をして北鮮にまで行く必要はなかったが、それほど学生のことを心配し、教育に責任を感じておられた先生だったが、私が学生問題で責任を取ろうとして出した三度の辞表はなぜか受け付けてもらえなかった。そして三度目の分を預かったまま天国に旅立たれてしまった。 「責任者が出処進退をあいまいにしておくことが、学生や社会の大学に対する信用を落とす所以だから、どんどん責任者をかえて事に当たらせたらよい。その結果教授も居なくなり学校もなくなるかもしれないが、紛争もなくなりさっぱりする。上から下まで無責任時代に一つくらい筋を通して消えた学校があってもいいではないか」というのがわたしの言い分であった。随分乱暴な話だが、先生はただにこにこ笑いながら話を聞いておられるだけで、やおら立ち上がって、とっておきのブランデーをまあ一杯飲めとすすめてくださる。つい張り詰めた気持ちも抜けてしまう。あとで『ミカエルの友』を読んでみると、「竹内は孫と遊んだ」とか 「犬は吠えなかった」とか書いてある。子供が親に甘えに来た位にしか先生の目にはうつっていなかったのではないかと思う。全く歯が立たない先生であった。 三度目の辞表は、三度目の正直のつもりだったが、ご病気再発、無理して八月末の理事会に出てこられ、ぱんぱんにはった腹を出して、「おしてみろ、塊がある」といわれたときはもはや何もいえなかった。 一週間後入院され、退院されないまま不帰の客となられたのだが、既に病の重いのを知っておられたのではなかったかと思う。 先生のご病気が一進一退する中で、十月初旬小康を得られたのを期に、先発していた与論島のゼミ学生を追っかけて鹿児島に飛びハイビスカス丸乗船のために桟橋にでかけたところを呼び出され、急遽引き返したが伊丹空港についた頃、永眠されご臨終には間に合わなかった。 先生はスケールの大きい型破りの宗教家であり、大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く偉大な凡人とでも申し上げたい方であったといえるが、親しくしていただいたのは先生の晩年で、人にすすめても自分はアルコール抜きの生活を送っておられたときだけに、酒豪としての先生をそこから想像することは出来なかった。人の飲むのをにこにこしながら笑って見ておられる好々爺としての先生の面影が目に浮かぶ。書きながら目を上げると昭和四十五年正月に頂いた色紙がかかっている。そこに書かれた「わが魂は母の胸にある幼児の如く安らかなリ」の句が目に染みて痛い。       (昭和48年7月24日)

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